71 再会(2)

 飽きるほど眺めた壁を見つめながらぼんやりと過ごしていると、階下が賑やかであることに気づいた。少し前にライナーが部屋を出て行ったが、そのせいなのだろうか。

 彼が戻ってきたら訊けば良いだけだ。まだ他人に会う気にはならない。アイリはふと、窓の外を見る。

 この屋敷に来たころと比べれば、ずいぶんと心が落ち着いたものだ。はじめのうちは、ライナーが二度と戻ってきて来ない気がして、彼が傍を離れるのも怖かった。彼にも裏切られてしまうのが怖くて、ひたすら彼に縋りついていた。

「心配なさらずともこの屋敷を出ませんし、必ず帰ってきますから」

 怯えるアイリが腕にしがみついても、彼は嫌な顔をしなかった。彼はいつも優しく、こう言ってくれた。アイリはそれに甘えて、いつまでもこの部屋に閉じこもっている。

 心配して様子を見に来るキャロルには申し訳ないと思っているが、完全に回復した姿を見せてしまったら、ライナーはもう傍にいてくれなくなるかもしれない。独りになるくらいなら、同情で構わないから、彼に憐れんでいてほしい。そう思いながらも、こんな自分にいつまで耐えられるだろうと、アイリは冷めた頭で考えていた。


 クーデターを成功させた軍の後ろ盾もあり、八年前、アイリは難無くアルカ教に潜り込んだ。軍の手回しがあったおかげで、かなりの好待遇で迎えられたのだ。周りからどう思われているのか、全く気にしなかったわけではないが、その地位と引き換えにするのならば、両親と兄を売ったことすら、アイリにとっては安い代償に思えた。

 両親も兄も、嫌いだった。勉強も、運動も、社交性も、兄には何ひとつ劣っていないつもりだった。ただ、生まれたのが二年遅かった。それだけで両親は、父親は、アイリを後継者として見ることはなかった。どんなに頑張っても、その努力は報われない。一般人であれば、そこそこ良い仕事に就くこともできるだろう。だが皇帝の妹であるアイリは、中途半端な王位継承権を与えられ、大した役職も与えられずに宮殿で生涯を終えるのだ。かといって、才能に欠ける兄の補佐などしたくもない。

 鬱々としたアイリの心情を見抜いたのは、ある一人の近衛兵だった。幸いアイリを憐れむ者が軍にも少なからずいたらしく、皇帝の殺害は水面下で計画され、いとも容易く実行された。


 自分の血筋に泥を塗っても、裏切り者と蔑まれても、アイリは後悔しなかった。ようやく自由になれた気がしていたからだ。

 いや、それは綺麗事だ。アイリはミコトのために、自分を犠牲にしたつもりでいたのだ。だから誇りにしていた。罵られることが、勲章のような気さえした。偽りで固められた地位を捨て、不遇な運命から少女を救い、正しく歴史を紡ぐのだから。

 ミコトが姿を消したと聞いた時、アイリは驚愕した。皇帝という称号は重荷かもしれないが、彼女の才能があれば将来は安泰だし、あんな兄の相手となる地獄とは比べものにならない、幸福な生活が送れたはずだ。どうしてミコトが逃げ出したのか、アイリには見当もつかなかった。

 ミコトも外の世界に出て、自由を味わいたいだけなのだろうと無理に納得し、提示された条件を了承して軍に捜させた。皇帝がいなければ、この国の歴史は途絶えてしまう。この国は女神が築いた世界そのものだ。流石のアイリも、それを崩壊させるのは気が引けた。

 しかしミコトと再会したあの日、アイリは自分が間違っていたことを知った。ミコトはきっと、アイリが何もしなくても、すべてを壊して自分の道を切り拓いただろう。そして、その道は玉座に続かない。

 そう、ミコトと再会する少し前に、ライナーに出会ったのだ。それを思い出して、アイリははっとする。

 アイリはミコトが心底羨ましくて、憎らしくて、愛おしかった。だからあの日、アイリはミコトに裏切られたような気がして、絶望した。そうしてできた心の穴を埋めたのが、ライナーだった。彼はまだ大人になりきれていないような歳だったが、縋りつくには十分だった。どことなく、彼がミコトに似ていることもあっただろう。

 あの頃から、アイリはライナーをただの護衛として見ていなかった。ライナーがそれを拒むこともなかった。彼だけには裏切られたくない。彼にはずっと、傍にいてほしい。ミコトが傍にいてくれないのなら、他を、つまり彼をあたるしかない。

 こんな自分が、アイリはどうしようもなく嫌いだった。


 ノックに続いて扉が開く。ライナーが帰って来たのだ。アイリはぱっと顔を上げて、笑みを浮かべる。ライナーの瞳は冷たいが、その表情は柔らかい。アイリはすかさず、彼の腕に抱きつく。

「誰か尋ねてきたの?」

「出張に出ていた傭兵が帰ってきたそうです。事情も理解しているようですから、ご安心ください」

 傭兵を出張に出すとは、どんな要件だろう。この屋敷の主についてもよく知らなかったが、今さら考えても仕方のないことだ。何よりライナーがいれば、心配する必要はない。

「どうかしましたか?」

 無意識に、腕に力が入ってしまったようだ。彼が不思議そうな顔で覗き込んでいる。

「なんでもないの」

 今度は彼の背中に、両腕を回してみる。彼は拒まない、絶対に拒まないから大丈夫。きっと彼は、私の背中に手を回してくれる。アイリは心の中で念じる。

 少し間が空いたが、彼の腕が背中に触れて、アイリはほっとする。少し躊躇っているのか、掌は浮いていた。彼のこういうところが、いじらしい。

 彼は何も言わない。アイリの気が済むまで、じっとしていてくれる。彼がどんな顔をしているのか見えないが、きっといつもの涼しい瞳で、遠くを見つめているのだろう。自分を見ていなくてもいい。彼から抱きしめられることがなくてもいい。

「あなたは、いなくなったりしないよね」

 どうかずっと、離れないでいてほしい。

 彼の腕が、ぴくりと動く。

「ええ」

 彼の掌を、背中で感じることはなかった。

 

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