68 決着(1)

 ロブスタに通うのは、すっかり日課となってしまった。

 扉を開けてマスターに声をかけると、カウンターには見慣れない女性が座っていた。亜麻色の髪はさっぱりと短く、細いうなじをさらしているのに、横髪は顔を隠すように少しだけ長い。それがどことなく、少女のような可憐さを残している。

 女性がこちらを向く。その顔を正視して、サムはどきりとする。見たこともないような美人、いや、美少女だ。

 サムがぼうっと突っ立っていると、マスターが視界を遮った。

「なに見惚れてんの。座ったら?」

 その言葉でサムは我に返るが、定位置の隣に彼女が座っているので躊躇ってしまう。美少女がいたずらっぽく笑った。

「譲りましょうか?」

「い、いえ、お気になさらず」

 定位置などどうでも良いではないか。一つ席を開けて座ろうとしかけたが、彼女が席を空けるようにコーヒーカップをずらすので、その好意に甘えて定位置に腰かける。

 もちろんまだどぎまぎしているが、マスターを目の前にしているので平静を装う。しかしマスターの目は欺けないらしく、にやにやされながらいつものコーヒーを受け取る。

「常連さんですか?」

「ええ、まあ」

 近くで見ても、美少女は美少女だ。化粧で誤魔化したような完成度ではない。目を合わせられないサムは、コーヒーを啜って何とか格好を保つ。もっとからかわれるかと思ってちらりとマスターを見るが、彼は何も言おうとしない。

「私は久しぶりに来たんです。ここのコーヒーが恋しくて。もしかして、記者の方ですか?」

 おそらく膨らんだメッセンジャーバッグを見てのことだろう。これまでに何度も経験したことだ。

「ええ、まだ三流ですが」

「ご謙遜を。三流記者が、このお店に毎日通えるはずがないでしょう」

 その声には、嘲りに似た冷たい響きがあった。サムが思わず彼女を見ると、目が合ってしまった。

「それは偏見というものですよ」

「偏見? 私はこのお店をよく知っているんですよ。あなたよりもずっと、です。ここは職種が何であれ、無能が通い続けられるお店ではありません。このお店は人を選ぶんですよ」

 青色の瞳が底光りする。にこやかな表情に反して、彼女の言葉には凄みが感じられた。

「……それはどういう……」

 彼女は答えない。目を細めて見つめる様は、サムを試しているかのようだ。マスターも黙ったまま。まさかこの女性は――。

 サムの様子に、ミコトは満足そうな表情を浮かべる。

「イーリスというこの国の名は、虹の女神の名前に由来するという話を聞いたことがありますか?」

 いったい何の話だ。サムは首を横に振る。

「そうでしょうね。大洪水から人々を救った方舟の話すら、知られていないんですから。神は未来に起こる大洪水をとある男に報せ、方舟を造るよう命じた。その後神は、二度と大洪水を起こさないことを誓い、契約の虹を架けた……」

 ミコトは鼻で嗤うように、息をつく。

「ここ数日、昼間は必ず虹が見えるのだそうですね。太陽さえ出ていれば、毎日同じ場所に。超常現象と言っても差し支えない。神話における象徴としての虹については言及せずとも、この国を騒がせた例の啓示を裏付けるものとして、ずいぶんもてはやされているんだとか。あなたはどうお考えですか?」

 虹の話は本当だ。この国にいる者ならば、誰もが目にしている。毎日同じ場所に都合よく虹が見えるという状況は、それが雨粒に反射した光の屈折という物理現象に基づいたものであっても、奇跡に他ならない。

 しかし「例の啓示」という虚構を作り上げた張本人に訊かれると、口が裂けても奇跡だなんて言えない。

「ずいぶん低い確率で起こる現象なのでしょう。……まるで誰かが、雨雲を操っているかのようですね」

「雨雲を操る、ですか。いったい何のために?」

「それは……ぼくにはわかりませんよ」

 あなたのほうがわかっているでしょう、そう言いたかったが、それほどの度胸は持ち合わせていない。

「そうでしょうね。私にもわかりません。神という不確かな存在を信じさせるには、ちょうど良い演出ではありますが。あなたはこれを、神秘として見てはいないのでしょう?」

「さあ、どうでしょう……。自分にも、わからないのです」

 立て続けに起こった、いや、知らされた事実は、普通の理論的認識を超えたものだ。それが神の所業とは思わないが、言葉の定義としては神秘と呼んでも良い気がしていた。

「しかし自分は、神を信じているわけではないので」

 ミコトは意外そうな顔をした。少しがっかりしたように、それでいて安堵したように目を伏せる。

「あなたを巻き込んでしまったことは申し訳ないと思っています。ですがあなたに任せたのは正解だったようですね。それは、私がしたことではありませんが」

 サムを選んだのは、やはりユンなのだ。そうして思い出す。ユンはサムを、ミコトに会わせようとしなかった。ここにユンが現れたら、彼女はどんな顔をするだろう。

「ひとつだけ訊きたいことがあります。どうして、エマさんにユン、さんを捜させたのですか? あなたは何もかも知っていて、彼女に教えていなかったのでしょう?」

 ミコトには想定内の質問だったらしい。余裕の表情でサムに向き直る。

「私は、エマに突きつけたかったんですよ。過程はどうであれ、八年前に家族を亡くし、行き場を失ったユンが自立している姿を。私もユンの過去を詳しく知るわけではありませんし、不確かな想像を人に言いふらすほど無責任でもありません。ですがユンを見れば、エマと対照的であることくらいは、火を見るよりも明らかでしょう? 何かに縋り続けようとするエマの、ユンも同じであるという妄想を、私は許せなかった。それだけじゃない。私はエマが嫌いだった。だから第三者を利用して、より効果的に、より信じざるを得ない状況で、エマに突きつけてやりたかった。それだけですよ」

 サムは言葉を失った。淡々と述べたミコトの表情や声色と、いかにも人間臭い動機が不釣り合いで、薄気味悪かったのだ。しかし彼女の人間臭さは、ユンのそれに似たところがある。サムはひどく納得していた。

「本筋のほうは、訊かないんですね」

「それは……、自分で調べますよ」

 サムはコーヒーを飲み干し、席を立つ。ユンが来る前に帰りたいというのも、もちろんあった。しかしどちらかというと、自分がもてあそばれているような気がして落ち着かなくなっていたというのが大きい。

 ミコトについてはある程度調べていた。その正体に想像もついていた。訊くまでもない。たとえそれが事実でなくても、納得するには充分だ。

 ミコトとマスターの視線を背に受けながら、サムはさっさと店を出る。ひんやりとした夜風が頬に冷たかったが、サムの頬は火照っていない。胸に残る冷ややかな何かが、全身に悪寒を巡らせていたからだ。


 ミコトとすら向き合うことのできない自分が、この世界の真実を追っても良いのだろうか。

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