64 過去(1)

 例の啓示が公表されたことによってこの狭い世界がどれほど変わったのか、ユンにはわからない。

 壁に囲まれた帝国で生まれ育ったユンにとっては、この国こそが世界のすべてだった。壁の外にどんな世界が広がっていても、あるいはどんな人間が生きていても、自分にとっては無関係な別世界だと思っていた。

 今やアルカ教の栄光は見る影もないわけだが、騒動から少し経てば、それを気に掛ける人間すら見当たらなくなった。どこかで息を潜めているのか、はなから形だけの信仰だったのか。ユンが見てきたアルカ教は、真の皇帝が別に存在するというセンセーショナルな主張によって、平凡な日々に飽きた民衆をかき集めただけの烏合の衆だった。昔はどうだったのか、今では知る由もない。

 ユンが選んで利用したサムは、早くも事務所を開設するらしい。

「スピード出世じゃん、サム君」

「まだ出世じゃないですよ。ここから生き残れるかが問題なんですから」

 サムはロブスタに入り浸っていた。ユンが訪れる時には必ずと言って良いほど、サムに出くわすのだ。

「ようやくまともな取材ができるようになったのか。まったく、めでたいことだな」

 ユンは嫌味っぽく言ったが、サムのことはそれなりに評価していた。人当たりが良いからか聞き込みには向いているし、慎重さと執念深さを兼ねそろえているので、派手ではないが確実に、対象の襤褸ぼろを拾うことができる。こういう人間は、狙撃手に向いているからわかるのだ。

「まあね。やっとまともな仕事ができそうだ。いろんな意味で」

 明らかに嫌味とわかる口ぶりだ。意趣返しのつもりか。隣にいるサムを、ユンは睨みつける。

「あんたらみたいな職種は、大したことのない話をろくでもない話にするのが仕事だろうが。まともな仕事とはよく言ったもんだ。今回の件だって、あんたらには日常茶飯事ってもんだろ。嘘だろうが本当だろうが、面白ければ何でもいい。話題が複雑なら、わかりやすいデマでいい。それを馬鹿正直に受け取る民衆も大概だが、そんなもんを堂々と生き甲斐にしちまうなんて、救いようのない馬鹿だ」

 サムはむっとしたが、痛いところを突かれたらしく、ついと目を逸らす。

「俺は今後、そんなことをするつもりはない。事実を伝えるのが、記者の仕事だと思っている」

「何を格好つけてるんだか」

 信じるに値しない事実なんて、誰も望んでいない。知られるべきでない不都合な事実など、どこにでも存在するものだ。

「……言った直後で面目ないんだが、ミコトさんは今、どこにいる?」

 ユンは呆れ果ててしまう。やはりこいつは馬鹿だ。何もわかっちゃいない。ユンは舌打ちする。

「知るか。仮に知ってても、あんたには絶対、会わせたくない」

 マスターが笑いをこらえているが、ユンは大真面目に言っていた。利用するときは命知らずで扱いやすかったが、その鼻先がミコトに向くことだけは避けたかった。彼女はこれまで、不思議なほどに上手く世を渡ってきたようだが、それは注目されなかったからだ。何かの影に隠れ、深く関わろうとする人間をかわしてきたからだ。ユンはミコトの過去を知らないが、それだけは知っている。

 サムはユンの剣幕にひるんだようだが、初めて会った時のような怯えた様子はない。この男は諦めない。ユンはため息をつく。

「あんたは長生きしないよ」

 サムは苦々しく笑った。

「俺もそう思ってる」


 「アルカ」というのは、古のとある伝説に登場する、方舟から名付けられたらしい。

 ミコトから聞いた内容について、興味のなかったユンはうろ覚え程度の記憶しかないが、確かそれは、未曽有の大洪水から人々を救った舟だった。方舟に乗った者は生き残り、水が引くと、神は二度とそのような大洪水は起こさないと約束し、契約の虹を架けた。

 なぜ神がそのような殺戮を行ったのかが不明なので、どのような経緯いきさつで「二度と起こさない」などと白々しい契約をしたのかも推測のしようがないが、とにかく虹は、約束の象徴とされるらしい。

 そしてイーリスというこの国の名は、同じく古に伝わる虹の女神に由来する。

「きっとこの国を築いた人々は、未来の人々にとっての過去が、美しい物語であることを望んだんだろうね」

 ミコトは時々、センチメンタルなことを言う。

「神話は作り話ってこと? その伝説を聞いたら、神話がそれを真似ただけとしか思えないんだけど」

「それはどうだか。だいたい今さら、どっちでも構わないでしょ。人は信じたいものしか信じないんだから、過去が虚構だろうと幻想だろうと、信じるに値すれば何でもいい。そう思わない?」

 ユンは今に通じない過去を振り返るたちではない。だから、そんな昔話には興味が無かった。

「あたしはそんなどうでもいい昔話より、ミコトの過去のほうが気になるよ」

 思い切って言ってみたのだが、ミコトは相変わらずの微笑で全く動じない。

「その言葉は嬉しいけど、話すことはできないな。私はユンと一緒にいたいし、私はどこからが自分の過去なのかもわからないから」

 この時のミコトの顔を、ユンは忘れることができない。


 ミコトのことを考えると、胸が苦しくなる。今になって、やっと彼女を知った気がする。そしてどこかで、二度とミコトに会えなくなることをユンは恐れている。

 ミコトと一緒にいられなくなるのなら、ミコトの過去なんてどうでもいい。サムがそれを明かそうとするのなら、彼を殺したって構わない。

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