63 痛み

 ――いた……。

 ふと見ると、いつの間にか紙で切ったのか、指から血が流れていた。指を動かしたときに、ちょうど傷が開いたのだろう。

 頭はぼんやりとしていて、自分が何の本を開いているのかもわからない。薄い絵本。子どものころ、よく読んでいた童話だ。顔を上げて周りを見ると、どうやら昔住んでいた家にいるらしい。

 今は夜らしく、窓の外は真っ暗だ。しかしご丁寧に、手元は灯りで照らされている。

 ここに来る前、何をしていたんだったか。

 少し前まで、このようなことはしばしばあった。気づいたら木にもたれかかっていたり、根元に腰を下ろしていたり。意識が戻るのは、いつも何かしらの痛みを感じたときだった。

 夢遊病かと自分に呆れたものだが、深刻に考えることはなかった。頻度としてはさほど多くない上に、生活に支障が出るものでもなかったからだ。

 しかし今は、考えるまでもなくはっきりと思い当たる。メフィストの仕業だ。

 血の滴を舌でなめる。痛みは、この身体が自分のものであることを自覚できる、もっとも鋭い感覚なのだろう。詳しいことはわからないが、ジャスミンはそう考えて自分を納得させている。

 彼はどうして、こんなところに来たのだろうか。

 手元の絵本を見つめる。嘘か本当かわからない、そしてどちらでも構わないような、母の故郷に伝わる伝説。母が後生大事にもっていたのも不思議だった。話の内容はぼんやりと覚えているが、今一度目を通してみる。そういえば、ミコトが本棚を物色していたときに、この本を読んでいたような――。


 一通り読み終えて、ジャスミンは絵本を閉じた。その瞬間に生まれた空気の流れすら、はっきりと感じられる静寂。

 この話に何を思うべきなのかはわからないが、彼がこの本を読みたがった理由はわかった。女々しいな、と鼻で笑う。

 ジャスミンがメフィストの存在を自覚してから、自分のものではない記憶を、夢ではないものだとはっきりと自覚できるようになった。そのおかげで、彼については多少理解していた。その上で、ジャスミンは彼を嫌悪することができなかった。

 メフィストが見せる記憶は、彼によって編集された都合の良いものなのかもしれないが、母の記憶も、誰かもわからぬ先人の記憶も、淡く、悲しい願いに満ちていた。そしてメフィストも彼らと同じように感じ、その悲願を達成させるために、力を貸したのだ。

 紛争によって、故郷を追い立てられた母。人々を病から救った医者。愛する妻と、生まれ得なかった我が子を思う父親。メフィストが彼らの記憶と共に存在するのであれば、ジャスミンは彼を忘れることも、その存在を消し去ることもできない。彼らの記憶が消えてしまったら、世界は同じ過ちを繰り返す。そんな気がするからだ。

 ジャスミンが考えていることは、メフィストにも筒抜けなのだろう。そう思うと気にくわないが、文句を垂れても仕方がない。

 自分の願いは何だろう。ジャスミンは考える。

 神に祈りたくなるほど絶望することも、無関係な人々の幸福を願うほどの慈悲もない。ひとつ、彼に望むとすれば、ミコトに関することくらいだろうか。

 ジャスミンは、ミコトの宿命を知ってしまった。だからこそ、彼女に救われてほしかった。彼女が救われるために、この世界の奇蹟が虚構で隠されることを願った。

 メフィストとは会話することも、対面することもできない。それでもジャスミンには、彼が笑っているような気がしてならなかった。


 絵本を本棚に戻し、外に出る。夜の森には相応しくないと考え、灯りは消していた。雲に隠れていた月が顔を出したおかげで、歩くのに問題はない。森を出ようとしたところで、前方から小さな灯りが見えた。見慣れた人影、ルドのようだ。

「どうしたんだ、こんな夜中に出て行って」

 どうしてルドが外出したことを知っているのかに心当たりはないが、自分を探しに来たのだということはわかった。

「感慨にふけっていただけ。ルドはどうしてここに?」

「散歩だ」

 そんなはずはないだろう。ジャスミンは笑いそうになるのをこらえる。

「……というのは嘘で、陛下に探すようにと言われたんだ。心配だからってな」

 ソフィアが命じたということは、ルドではなく、彼女がジャスミンの外出を知っていたわけだ。いずれにせよ、どうして彼女が知っていたのかはわからないが。

「このあたりを探してみろというのも、陛下のお達しか?」

「そうだ。散歩にしては遠すぎないか」

 ソフィアは感づいているのかもしれない。昔から彼女に隠し事はできなかった。

「そうか。面倒をかけて申し訳ない」

「俺は構わないが……」

 しばらく黙り込んだまま、歩みを進める。互いに話題を探しているような気配はあるものの、沈黙に対する気まずさはない。

「結局、メルムとはいったい何だったんだろうな」

 ルドがぽつりと呟く。無理もない。彼らは何も知らないのだから。

「さあ」

 人々はどのように納得するのだろう。当事者ですらこの様であるのに、彼らは何を想像し、どう受け入れるのだろう。それをほくそ笑んで見ていられるほど、ジャスミンは人間を捨てていない。

「まあ、お前が無事……ではないが、大した怪我じゃなくてよかったよ」

 ルドは本気で心配したのだろう。ありがたいことだが、どんな顔をすれば良いのかわからない。灯りがぼんやりと足元を照らしているが、表情までは読み取れなさそうなので安心する。

「ありがとう」

 ジャスミンはそっと、左肩に手を当てた。

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