五章 葉見ず花見ず

59 救い(1)

 例の刺客の報せを受けたためか、ようやく帝国からの帰国命令が届いた。

 長く過ごした客室で荷物をまとめ終え、一息ついていると、ミコトが思い立ったように聞きなれない伝説を語り始めた。何が始まったのかと思いつつも、テオは口を挟まずに聞くことにした。


 昔、どんな病も治すことができるという、大層腕の立つ医者がいた。

 その医者は、特別な治療を行っていたわけではない。もちろん処方は的確であったが、彼はごく一般的な薬を調合し、患者に与えていた。それなのに、他の医者に打つ手がないと判断された患者も、彼の手にかかれば、嘘のように健康になった。

 試しに彼が処方すべき薬を指定し、他の医者が処方してみると、その病状は一向に回復しなかった。しかし彼が処方してみると、なぜだか治ってしまう。

 そうでなくとも、彼は医者として十二分に優秀であったのだが、人々は彼が神の手をもち、彼が薬を処方することこそが、万能薬であるのだと考えた。しかしもてはやす人々に対し、彼はこう言った。

「ぼくは神の手など持っていない。どうしてなのかはわからないが、処方した薬が体内でどのように作用するのか、ぼくには想像できる。だからこそより的確に、病に合った薬を処方できるんだろう」

 彼の言葉は誰にも理解されなかった。人々はその言葉を好き勝手に解釈し、彼を聖人のように称え、その所業を奇蹟として崇めた。


 評判はたちまち広まり、患者は言うまでもなく、彼に弟子入りを志願する者も殺到した。そんな中、不可解な出来事が起こり始める。

 彼が診察した患者が、次々と姿を消し始めたのだ。まるで神隠しに遭ったかのように、跡形もなく。

 その原因は、当然ながら本人にもわからない。人々は彼を恐れるとともに、神が彼を返せと訴えているのだとして、一度でも彼の診察を受けた者がそれ以上姿を消す前に、彼を神のもとへとかえした。つまり、殺したのだ。

 彼は精霊が住まうという伝説の残る、森の泉に生きたまま沈められた。その泉のほとりには、樹齢に見合わない巨木が育ったという。


 彼の医術書は弟子によって受け継がれ、すべてではなくとも、その村の人々を病から救い続けた。

 人々はその恩恵を受ける度に彼が沈められた泉に出向き、神隠しに遭わぬように、そして彼に感謝するために、祈りを捧げた。特に彼の医術書に触れる医者の卵は必ず泉にて祈りを捧げ、彼の医術に恥じぬ医者となることを誓ったという。


「イルファさんが遺した書物の中に、一冊だけ童話らしき物語が紛れていたんだ。これはおそらく、彼女の故郷に伝わる伝説なんだろうね」

 あの短い間に話の内容を記憶していたミコトの記憶力には、感服するしかない。

「それがどうかしたの?」

「この話が本当なら、この医者はメフィストの言っていた、精神を具現化する能力、つまり魔力なるものが使えたということだ。処方した薬に細工でもしていたのかな。そしてこの医者の所業が人々に認められ、奇蹟とたたえられるようになってから、神隠しが起こったとされている。」

 この伝説の真偽について議論する気はないのだろう。しかしなぜ今になって、ミコトがジャスミンの母であるイルファのことを気にしているのか、テオにはわからない。

「魔力はやっぱり、超能力みたいなものなんだろうね。でも、どうして神隠しなんて起きたんだろう。人に知られると、まずいことでもあるのかな? でも、いったい誰に……」

 神隠しなのだから、都合が悪いのは神だろう。つまりメフィストなのだろうか。

「私が考えるに、この医者はイルファさんと同じなんじゃないかな。つまりメフィストの憑代だった。彼が力を貸し、医者の知識で人々を救ったのであれば、神隠しはメフィストにも予想外だったんだろう。境界線と同様に、神隠しを起こしたのはこの世界と考えるのが妥当だろうね。この世界に存在してはいけないものを隠滅するために」

 まるで、この世界が意思をもっているかのようだ。ミコトはずっと、こんな空想めいたことを考えていたのだろうか。知らないはずの記憶を辿って。

 ミコトはかなり早い段階、つまりジャスミンの生家を訪ねたころから、イルファがメフィストの憑代であったことを疑っていたのかもしれない。彼女ははじめから、メフィストのことを知っていたのだから。

「でも、消えたのは超能力をもっていた医者じゃなくて、その医者に救われた人たちでしょ? 超能力をもっている医者が消えるなら、まだわかるけど」

 奇蹟をなかったことにするには、それが一番はやい。

「きっとメフィストの存在は、世界にとって必須なんだろうね。そして彼には、超能力が必要なんだ。だけど人間に超能力、あるいは魔力は必要ない。それが存在しないのが、この世界だから。メルムが消えてしまうのも、そういう理由だったのかもしれない。魔力の存在を人々が認めてしまうと、この世界には穴でも開くのかな」

 その穴は、どこにつながるのだろう。メフィストの言っていた、外の世界か。それとも、どこにもつながっていないのか。

「考えすぎかもしれないけれど、帝国のお偉方はそれを恐れて、国民を囲いこんでいるのかもしれない。奇蹟に最も近い女性を女神に仕立て上げたのも、魔力の存在から人々の目を逸らすためだったのかもしれない。……それはともかくとして、メフィストはずいぶんと、人間に優しいらしいね」

「どこが? 人々を救っていたのは、医者の意思じゃないの?」

「おそらく、そこが重要な問題なんだよ。彼の行動は、憑代の意思に左右される。つまり今なら、ジャスミンの意思に左右されるということ。これまでは自覚がなかったから例外かもしれないけれど。そしてその意思は、世界のものと一致するとは限らない。つまりこの世界に絶対者は存在しないらしい。素晴らしい世界だね」

 このいびつな世界には、神も奇蹟も存在しない。奇蹟によって生まれた世界であるにも関わらず、世界は奇蹟を認めない。その均衡を保つために、人々はちぐはぐな世界観を抱えて生きている。

 メフィストとエルピスは、本来人々に認知されてはならない存在なのかもしれない。人間に認知されない限り、彼らはただ存在するだけの知性だ。その存在は人間に依存するのだから、彼らは憑代ありきの存在。彼らの孤独を癒せるのは、憑代だけなのだ。

「エルピスは、どうなんだろう」

 一度目にした彼女のことを、テオは何も理解していない。メフィストと似て非なるもの。ミコトの中に隠れた、別の誰か。人々が女神と呼ぶ女性。この程度で理解できたとは思っていない。

 ミコトは興味なさげに、首をかしげる。

「何のために存在するのかは、私が訊きたいね。この世界に必要なのかということも」

 そんなこと、わかるはずがない。

「ミコトにとっては、必要じゃないの?」

 ミコトは少し目を伏せたが、その表情からは何の感情も読み取れなかった。

「私も、世界がどうなっても構わない、とは言えなくなってしまったけど、この世界が必要としないのなら、私にも必要ないね」


 なぜミコトが今になってこの話を蒸し返したのか、テオにはわかる気がした。この話を聞けば、テオは他人にエルピスやメフィストの存在を話せなくなる。しかし口封じだけでなく、面倒な立場にあるジャスミン、あるいはミコト自身を擁護する意図もあったのだろう。そしてジャスミンがいない今、この話をするところに、彼女の葛藤が透けて見える。

 ミコトが珍しく迷っているというのに、大した言葉もかけられない自分が、テオはもどかしい。

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