55 ある少女(7)

 その日は、雨が降っていた。ミコトは傘を持っていなかったので、マグノリアのものを一つ借り、登校した。マグノリアは洒落者しゃれもので、服装に合わせて傘を選ぶから、何本か持っていたのだ。

 漫然と授業をやり過ごし、放課後になれば、すぐに荷物をまとめる。雨はまだ、降り続いていた。

 傘を差し、ひとまず家路につく。まっすぐ帰るつもりは毛頭なかったが、雨なので、家の近くまでは最短の道のりを選ぶ。

 するとかなり遠くで、マグノリアとフランクらしき人影が見えた。なぜだか路地裏へと入って行く。フランクの観察はまだ続いていたので、気づかれぬように近づき、屋根の下で傘を閉じる。

 雨音のせいで、ふたりの会話は聞こえない。覗き見ては、相手にも見えてしまうだろう。鏡を使おうとしたが、それが通用しないほど奥にいるらしく、様子を窺うのは無理そうだ。

 仕方がないので、耳を澄ます。足音は近づきも、遠ざかりもしていない。覗き見ない方がよさそうだと、直感的に悟った。幸い、倉庫の並ぶ人気の少ない場所である上に、雨のおかげで人通りはほとんどない。そんなところで突っ立っているのも不自然ではあるが、邪魔者はいない。

 集中して聞き耳を立てていると、突然足音が近づいてきた。一人分。フランクだろうか。ミコトは音を立てぬよう、後退る。

 しかし彼はすぐ手前まで迫っていながら、姿を現さなかった。代わりに、銃声が響いた。

 まさか刺客か? しかし、路地裏へ向かって発砲したように聞こえた。マグノリアはどうしたのだ。そこでミコトは、今なら姿を現しても不思議ではないということに気がつく。

 さも今通りかかったように見せかけるべく、傘を広げて路地裏の入り口に立つ。

 目にしたのは、信じがたい光景だった。

 マグノリアが打たれ、フランクが突っ立っている。フランクはぎょっとした顔で、こちらを見ていた。

 フランクがマグノリアを撃ったことは明白だった。ミコトはしばし呆然としたが、フランクと目が合うと、思考が戻った。

「どうして」

 マグノリアは、確実に助からない。むしろもう死んでいるだろう。

 水たまりが、紅く染まってゆく。雨が紅い地面を叩き、染みを滲ませてゆく。

 それを見て、ミコトは何も感じない。

「ああ、ミコト様でしたか。やっと、あなたに打ち明けることができる」

 フランクはずぶ濡れになって髪から雫を滴らせながら、ミコトに向き直る。

「俺は、リオと言います。リタの弟です。アニエス様に仕え、役目を果たすべく、あなたに会いに来たのです。いったい宮殿で、何が起きたのですか? 守備通り、あなたが皇帝となるはずだったのに……」

 彼は笑っていた。やっと、本当の自分に戻ることができた。そんな喜びを全身にたたえて。

「あなたが行方不明になったと聞き、オリヴァー家でお待ちしていたのです。必ずや、あなたはあの家に辿り着く、そう信じて。そしてあなたは、予想だにしない形で姿を現した……。震えました。そして、後悔したのです。俺はすでに、この令嬢に縛られてしまっていた。あなたのために、あの家にいたと言うのに。ですが今こうして、縛りを解いた」

 リオが恍惚の表情で、両手を広げる。硝煙を、雨が流してゆく。

「あなたがいるべきは、あの家ではない。まずは、アイリ様に会いに行きましょう。今すぐにでも」

 彼が近づいてくる。ミコトは傘を差したまま、身を固くする。

「私は皇帝になどならない。リタはそんなこと、望まなかった。私にそれをいたりなかった。だから私は自由に生きると決めた。あなたの言いなりにはならない」

 そう言って睨みつける。傘の柄を握りしめる。

「何を……。リタがそんなことを……? あの、裏切り者」

「裏切り者? 裏切らせたのは私なんでしょ? そのおかげでリタは死んだ。でも、私は母の意思を継がない。あなたが仕えるのが母であるなら、私たちは対立する。……縛りを解いた? 自惚うぬぼれるな。あなたはただ、マグノリアを殺しただけだ。その首輪はまだ、あの家につながっているというのに」

 ミコトは挑発するように、リオの首元を指さす。リタを裏切り者呼ばわりされるのは気にくわない。母の望みなど、ミコトの知ったことではない。この男は自分の欲求を他人のものにすり替えているだけだ。あるいは他人の欲求を曲解しているだけだ。

 リオの目は真っ黒だった。一切の光もない、冷たい目。

「あの家など、どうとでもなる。考え直してくださいよ、あんたは運命から逃れられない。アニエス様は亡くなった。一族の悲願を遂げられるのは、あんたしかいない」

 リオが銃を落とし、縋るようにミコトの両腕を掴む。その力は強く、ミコトは傘を落とす。

 この男に何を言っても、無駄だ。

 こんな男の話、どうでもいい。

 マグノリアは、もういない。一緒に過ごしたのは本当にわずかな時間だったが、彼女はミコトを、別の世界に導いてくれた。ごく普通の生活、血縁で結ばれた家族、何の対価もなく、一緒にいられる誰か。

 彼女の人生を台無しにしたのは、自分だ。

 なのに、何も感じない。もう二度と会えないという空虚。心にぽっかりと、穴が開いただけ。

 先刻感じていた憤りが、雨で冷まされていくようだ。

 雨で濡れた髪が、顔にはりつく。不快。この男に腕を掴まれていることも。

「わかったから、放して」

 リオははっとして、すぐに手を放す。非礼を恥じるようにしばらく俯いてから、落とした銃を拾い、スーツの内側にしまおうとする。

 まったく、律義な男だ。

「御託はたくさん」

 リオがスーツをつまんでいるうちに、首元めがけて蹴りを入れる。体勢が崩れた瞬間に、もうひとつの銃が見える。掴みかかるふりをして、その銃をとった。

 マグノリアを撃った銃はおそらく、刺客の犯行に見せるために隠し持っていたものだ。もうひとつが護衛用、つまり正式にフランクのものと認識される銃。

 紐がついているようだが、気にはしない。すばやくスライドを引き、安全装置も外してから、彼に向けて構える。

「いったいどこで、そんな芸当を覚えたんです? まったく、リタは銃の使い方まで教えたのか……」

 彼は両手を挙げ、皮肉っぽく笑う。ミコトは無視して上着を引っ張り、マグノリアの近くまで移動させる。

 彼はミコトが撃つはずがないと高をくくっているらしく、されるがままになっていた。ミコトは彼をひざまずかせ、右の頭部に銃を突きつける。

 リオはマグノリアを見ようとしない。彼なりに、後ろめたさは感じているのかもしれない。

「彼女の死体を見せたところで、謝罪する気はないですよ」

「謝罪して何になる。だけど、あなたには多少、同情してあげてもいい。だから、格好のつく死に様を演出してあげる」

 ミコトは引き金を引いた。


 リオは右利きだ。右手でそれらしく握らせれば、自殺に見せかけられるだろう。そうなるように銃を構えたつもりだ。どこまで誤魔化せるかはわからないが、他殺を疑われても、自分の仕業だとわからなければ事足りる。

 うつ伏せに倒れたマグノリアを、ゆっくりと仰向けに反す。少しだけ抱くように身体を寄せ、体勢を整えた。フランクが彼女の死に責任を感じて自殺したとするならば、このほうが自然に見えるだろう。それから隠し持っていたほうのリオの拳銃と傘を回収し、オリヴァー家へと向かう。

 父親はすでに、帰っているだろうか。この拳銃はどうすべきか。

 ひとまず、植木の根元に隠しておく。すでにずぶ濡れなので、傘は畳んで手に持っていた。置いてきた方がそれらしかったと後悔するが、気の動転した人間が、そんなことを気にするはずもない。

 屋敷に到着すると、ちょうど父親が帰ってきたところだった。玄関で家に上がろうとしている彼らの背後に、ミコトは立つ。


 

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