52 ある少女(4)

 オリヴァー家の屋敷はいかにも由緒ある家の邸宅という雰囲気で、地味で古風な建物を、華やかな庭が彩っていた。

 誘拐詐欺未遂事件が起きたのは夕方で、屋敷についたころには夜になっていた。ここで男のふりをする必要はないのだが、今となっては素がどちらかわからなくなってしまって、ミコトはケープを脱がなかった。

 マグノリアはミコトの様子から何かを悟っているらしく、執拗に詮索することはなかった。夕飯を馳走になり、父親が少し遅くなるからと、風呂を勧められた。

 断る理由もないので素直に従うが、いったい何をしているのだとミコトは自問していた。一晩帰らなかったところで、レイやベアが心配することはないだろう。だが、この家は居心地がよろしくない。数か月前まで同じような場所にいたのに、住む世界が違う、そう感じてしまう。早く帰りたい。ミコトは切実に思った。

 マグノリアはとても気が利いて、お喋りも不愉快ではなかった。しかし、フランクという執事はいけない。ずっとこっちを見ていて、不愉快極まりない。そのくせ、見つめ返すと慌てて目を逸らす。

 帰ってきた父親は、黒髪で長身の男を背後霊のように従えていた。まず最初にそちらが気になってしまったが、後から見た父親のほうはなんとなく、自分に似ている気がした。単なる先入観だろうか。

 マグノリアが委細を話して聞かせる。父親はその話にちょっと目を見開いたが、こちらを見る目は焦点が合っていないようだった。一方背後の男は、死んだ人間を目にしたような顔をしていた。もちろんミコトは、そんな場面に出くわしたことなどなかったが。

「君がマグノリアを、助けてくれたのか」

 父親が譫言うわごとのようにつぶやく。その言葉に、ミコトはこくりと頷く。

「そうなの。この子はすごく強くて。お礼をしなきゃと思ったのだけれど――」

 マグノリアと父親たちの温度差が激しく、ミコトは氷が融けるのを待っているような気分になった。その間に、そういえば母親はいないのか、なんて考えていた。

「礼か……。何が良いだろうか」

 相手が子どもなので、どう出るか探っているのだろう。密かに鼻を鳴らす。

「礼など必要ありません。お構いなく」

 敢えて大人びた言葉を選んだのだが、マグノリアに笑われてしまった。


 結局お礼云々の前に夜が更け、ベッドが用意されてしまった。疲れてはいたので眠るが、階下では何か話をしているらしい。もしかしたら、以前のミコトの想定通りに話が進んでいるのかもしれないが、今となっては気が乗らない。地下街を離れるのが、惜しくなってしまったのだ。

 そう思いつつ、きっと離れるとなればすんなり離れられるのがミコトだ。まず、地下街に二、三年留まるとなったら、リコのままではいられない。あの街は、ベアの屋敷は、寓居だとはじめから決めていたではないか。

 心残りは、ベアとレイ。彼らと過ごした時間は、絶対に忘れられないだろう。


 翌日、ミコトはマグノリアと話し、一度地下街に戻った。

 彼らに、別れを告げるために。


 ベアには、本当のことを打ち明けた。つまり、自分はアイザック・オリヴァーの実子であり、ひょんなことから養子にとられることになってしまった、と簡潔に話した。ベアは大笑いして、最初からそれが狙いだったのだろうと、痛い図星を突いた。

 大して無い荷物をまとめていると、ベアが思い出のペーパーナイフをくれた。また遊びに来いと軽く言ったが、もう二度と来ない気がしていた。人並みにしんみりして見せると、ベアは少し髪の伸びた頭を、わしわしと撫でた。

「あんたを責める気はないんだけど、最後の責任として、本当の名前を教えておくれよ」

 ベアは最初に会ったときのように、煙草を吹かせていた。黒い爪も、真っ赤な唇も変わっていない。それらが変わらないほどに、短い付き合いだっただけだ。

「ミコト」

「ミコト、か。良い名だ。ではミコト、また会おう」

 ベアが片手を上げると、煙草の先が赤く灯った。


 レイにどう伝えるべきか決まらないまま、レイが現れた。

「出ていくのか」

 ミコトは、こくりと頷く。荷物を持っているから、何を言わずともわかるのだろう。

 レイはそうか、と言っただけで、黙り込んでしまった。

「ごめん。いきなり」

 なんて言いつつも、昨日今日の話なのだから、オリヴァー家で何かあったのだと思い至らない彼ではない、ミコトはそう思っていた。もしかしたら、ミコトが下っ端連中の計画に耳を傾けていたときから、何かに気づいていたかもしれない。それくらい、彼はリコをよく知っている。頭が切れる。

 初めて会った時よりも心なしか、彼は背が高くなった。上目遣いに見ていると、突然彼がミコトを抱きしめた。

 服をすり抜けるようにして伝わる体温に、ミコトは戸惑う。兄のように慕うレイであっても、相手は男性なのだ。思わず身を固くする。

「お前がいなくなるのは寂しいな。リコ」

 レイは、単調な声色でつぶやく。

 ああ、そうか。彼が知っているのは、リコなのだ。ミコトが作った少年。彼が別れを惜しむのは、ミコトではない。だってレイは、ミコトのことを知らない。

 彼の胸に顔をつけたまま、リコじゃない、ミコトだと、彼に聞こえない声でつぶやく。

 胸に、ちくりをした痛みを感じる。

「私もだ。レイ」

 背中に回されたレイの指が、ぴくりと動く。少し間を空けて、ゆっくりと身体が解放される。

「またいつか、会いに行くよ」

 最後は笑って、しっかりと彼を見た。呆けたような彼の顔を一瞥し、すぐに身を翻して背を向ける。


 彼らを捨ててまで選ぶ価値が、オリヴァー家にあるだろうか。

 どんな数奇な巡り合わせをしたって、もう二度と会えないリタとの別れは、あんなにもあっさりしていたのに。望めば会える彼らとの別れは、こんなにも苦しいものなのか。

 ミコトは笑った。自分にもちゃんと、感情があるではないか。でもこれは、本当に自分の感情なのか? 自分が作り出した、リコのものではないのか。

 こっそり回収した、リタの形見を抱きしめる。自分には、こんなものしか残っていない。彼女に言われた通り、自由に生きると決めたのに、自分はどこかでこんなものに縋っている。

 いや、それも違う。自由に生きなければならないなんて、リタの願望に縛られているだけだ。それを自由を呼んで良いものか。ミコトは思考の矛盾に立ち尽くす。

 そこでふと、思い出す。レイとの会話だ。

 レイはなにかと、ミコトに世話を焼いてくれた。あるとき、ミコトがこう言ったのだ。

「レイって、最初に会った時は微妙に優しかったけど、本当はちゃんと優しいんだな」

 レイは声を上げて笑った。

「そうでもないぞ。俺は、自分と、自分の好きな奴のために生きる主義なんだ。嫌いな奴に、親切にする義理はない」

「じゃああの時の俺は、どっちだったんだ」

「初めて会うやつには、基本的に好きも嫌いもないだろ。でも嫌いな奴だったら、話に入ることもなかっただろうな」

 レイはやっぱり、優しかった。


 自分と、自分の好きな人のためだけに生きる。それはきっと、何よりも自由だ。自分勝手で、優しい人の生き方だ。

 自分が誰であっても、好きな人のために生きることならできる。自分が誰になっても、好きな人のために生きようとすることはできるはずだ。そしてそれは、自分のために生きることだ。


 リタが残した誰かの手記と、ベアにもらったペーパーナイフ、そしてレイの信念を抱いて、ミコトはオリヴァー家の扉を開ける。


 

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