48 捧げる者(2)

 女神の末裔とされる一族は、帝国壁外の西方で暮らしていた。その事実を知る者はごくわずかで、決して外部に漏らさないことを不文律とし、ひとつの自治区を構成した。

 アニエスの母親、グレイスは、ヒナタの母親の友人だった。ヒナタとアニエスは、小さな村で共に育った。

 グレイスはどこか陰のある女性ではあったが、常に穏やかで、誰にでも優しかった。しかし身体が弱く、しばしば寝込むことが多かった。

 そんな時、アニエスはヒナタの家に預けられ、文字通り寝食を共にした。女神の末裔である高貴な身とされながらも、彼女たちはごく普通に、その存在を敬う人々と接していたのだ。

 ヒナタは教育者の家系に生まれ、幼いころから壁内の学校に入学することを目標に、勉学に励んでいた。毎年ごくわずかではあるが、壁外からの「留学生」が募集され、奨学金とともに特別待遇を受ける制度があり、ヒナタはそれを利用して、壁内で生活することになった。

 アイクとは、壁内の高校で出会った。あのオリヴァー家の御曹司と聞いた時は驚いたが、眉目秀麗、成績は常に上位、身体能力も抜群となれば、その名声も伊達ではないと思わざるを得ない。

 そんな彼とはなぜか気が合い、いつの間にか友人となっていた。学生時代に、秘書にならないかとアイクに誘われたのだ。

 アイクの両親はどちらも若くして亡くなり、彼は大学を卒業して間もなく、父親の会社を継いだ。その過程で出会った女性と結婚し、娘であるマグノリアが生まれたらしい。その話は聞いていたが、そのころヒナタは教師として働きつつ、グレイスの世話をしていた。壁内外の出入りは厳しく管理されているが、ヒナタの母親と偽り、医療の発達した壁内に招いたのだ。

 始めは病院に通っていたが、そのうち治療する手立てがなくなり、グレイスは死を待つのみとなっていた。そのころに、アイクの妻が亡くなった話を耳にした。

 グレイスの死が近くなったころ、ヒナタは壁内にアニエスを招いた。これも、ヒナタの特別待遇が大いに役立ったわけだ。グレイスの容体は不安定だったが、母親を看取るという口実のもと、アニエスが壁を越えたその時が好機と見て、アイクに会わせたのだ。

 グレイスが亡くなった日だ。雨が降っていた。眠りがちになった彼女をぼんやりと眺めながら、アニエスの帰りを待っていた。

 何の因果か、アニエスを出かけさせた直後に、グレイスは息を引き取った。ヒナタとしては何とも複雑な心境だったが、翌朝に帰ってきたアニエスは泣き伏すこともなく、亡くなった母の手を握っていた。

 そこでヒナタは、すべてを聞かされた。

 彼女たちは女神の末裔というだけでなく、女神とされるエルピスという女性の記憶と人格を引き継いでいるのだということを。父、あるいは母が死ぬと、エルピスはその子どもに乗り移る。そしてその時、子どもの人格は消えてしまう。

 アイクが出会ったアニエスは、すでにエルピスだったのだ。ヒナタがグレイスと呼んでいたのもエルピスであり、彼女の宿命を語ったのもエルピスに他ならない。

 アニエスの人格が失われたことには絶望したが、初めて他人にその事実を語ったというエルピスのために、すべてを尽くす覚悟を決めた。


 アニエスの身体が妊娠したことを機に、彼女は故郷へと返した。そしてヒナタは教師を辞め、アイクの秘書となった。

 その後の経緯は想像するほかない。しかしミコトが現れた時、すぐに彼女の娘だとわかった。顔立ちが似ていたから、というだけではない。ミコトという名前には、大いに心当たりがあった。

 ヒナタの家系は、帝国の一般的なものとは異なる文化の書物を多く揃えていた。おそらく、大本おおもとが異なる文化圏の家系なのだろう。アニエスもそれらの書物を読むことがあった。

 「ミコト」は、神の尊敬語として使われる。おそらく彼女は、神話か何かで目にしたのだろう。その名には、御言という意味も含まれるのかもしれない。

 女神の末裔、真の皇帝となる少女には、ぴったりの名前だ。そしてその由来を推測可能なヒナタなら、すぐに気がつく。

 彼女とは一晩の付き合いだったとはいえ、アニエスにそっくりな少女が姿を現したとなれば、アイクもさぞかし驚いたことだろう。実際のところ、彼にはさほど驚いた様子もなかったが。


 ミコトが姿を現した当時、マグノリアにはフランクという護衛をつけていた。国内の情勢が不安定で、念のためという意味合いが強かったが、暴動に乗じた犯罪から、彼女を守るためだ。

 実はフランクという名は偽名で、本名はリオである。アニエスの家系と長く交流のある、メイヤー家の息子だ。ヒナタは初対面だったが、メイヤー家と聞けば、自分と目的を同じにしていることくらいはわかる。

 それを知っていたから、ヒナタは彼を雇った。まさかマグノリアに危害を加えるとは、思いもしなかった。ヒナタはリオの心境を想像できないこともなかったはずなのに、彼の狂気に気づくことができなかった。むしろ、リオとマグノリアの間に男女関係があることを疑っていたとは、何とも楽天的で愚かしい。ヒナタの人生で最も悔やまれる失態だ。

 マグノリアの死因は、通り魔的な殺害ではない。リオの手によるものだ。物証がない上に被疑者が死亡しているのだから、捜査が中途半端に終了したのも致し方ない。しかしヒナタにはすぐにわかった。ヒナタが思い至ったのだから、アイクもあの事件の真相を見抜いていたに違いない。ミコトが関与していることも明らかであったから、アイクは捜査をさせたくなかったのだろう。

 ヒナタはあの雨の日を、死ぬまで忘れることができないのだろう。死んだ姉を見つめる、ミコトの瞳の冷たさを。彼女が放った言葉を。雨に濡れた親子が、本当にそっくりだったことを。

 ミコトは父親に似て、他人に理解されないほどに才能のある人間だ。ただし、恵まれてはいない。それは、両親譲りの運命さだめなのかもしれない。


 彼女もいつか、エルピスとなるのだろうか。それはアニエスの死を意味する。

 ヒナタはその時が来るのを、恐れていた。

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