三章 また逢う日を楽しみに

30 慕う者

 ミコトは彼に背を向け、暗号表を暗記しているところだった。彼女から見えないのを良いことに、クリフはじっとミコトを見つめていた。ふわふわとした亜麻色の髪、華奢で細い背中。絵に描いたような完璧な容姿。彼女が来たときはいつも、見惚れてしまう。

「あまり見ないでほしいんですが」

 彼女は背を向けたまま言う。彼女からは見えていないはずだが……。

「ああ、ごめんごめん。見惚れちゃってね」

 クリフがわざとらしく頭を掻いていると、ミコトが振り返った。

「あれ? まさかもう覚えたの?」

「ええ、これ以上時間をかけると、背中に穴が開きそうなので」

 振り返った彼女に、クリフはまた釘付けになる。吸い込まれそうな、深い青色の瞳――。

「もしよかったら、今日の夜、一緒に食事しない? 美味しいところを紹介するよ」

「本当ですか? ぜひ」

 まさかの返答だ。クリフは跳び上がりそうになるのを抑えて、深呼吸する。

「――なんて、言うと思いましたか? 私は父のように朴念仁ではありません。そんな下心が見え見えな誘いには乗りませんよ。だいたい、あなたと私が食事しただなんて知られたら、上にどう思われるかわかりません。良くて異動、その次がクビ、最悪、文字通り首が」

「皆まで言うな。わかっているとも。でも、わからなければいいじゃないか。君とぼくが時間差で……、レストランに入り、個室に……」

「私はそこまでして、食事したいわけではないので」

 ミコトは冷たい。それがまた良い。

「ではまたいつか。ぼくが自由の身となったときに」

「考えておきます。そのかわりに、頼みたいことがあるんです」

 彼女が、頼み事? 初めてだ。そしていつかもわからぬ話ではあるが、食事の誘いを断らなかった……?

「私が国外にいる間、自由な連絡手段はありません。ですから、この暗号を利用して、さらなる暗号を使用します。それを、上にばれないように伝達して頂きたいのです」

「君の頼みなら断らないが、どうしてそんなことを? そもそも、誰に伝えればいい」

「そのうちわかるはずです。宛先は暗号に載せますし。お願いできますね」

 彼女の企み事に加担できるとは光栄至極。断る理由は皆無。

「もちろんだ。では、暗号を教えてもらおうか」


 ミコトはクリフの目が嫌いだ。いつも自分を凝視している。……嫌な記憶が蘇る。

 しかしこの男を利用するのは、非常に効率が良い。この通り何も見えていないし、彼に不利益が生じることがあっても、後で簡単に丸め込める。

 この男を直接利用するのは、ミコトではない。彼と接触しても不自然ではないブラックが、帝国の状況を伝えてくれるだろう。ミコトからは何も発信しない。送るのはダミーだ。

 そのうちこの男とミコトのやり取りを疑う者が現れるかもしれないが、むしろ好都合だ。この男もブラックについては口を割らないだろうし、ミコトに不利益な情報を漏らすこともないだろう。たとえ上官であっても、暗号を解読できる人間はごくわずか。指令以外の情報のやり取りについては確認せず、伝令そのものを止めさせるだろう。

 お偉方はミコトが何らかの指示を出していると考えるはずだ。しかし実際のところ、ミコトは何もしない。準備はすでに、終わっている。ミコトがどうなっても、計画は止まらない。

 しかしいつになるかは不明だが、この男の食事の誘いを断り切れなかった。承諾したわけでもないが、この男は会話の一言一句を正確に記憶しているだろうから、しらばっくれるのは無理だろうし、何より無粋だ。

 その時が来たら、誘いに乗るのが筋だろう。囮になった礼はせねばなるまい。

 ただし、ユンを連れて行こう。

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