27 望む者

 地下牢に閉じ込められた鳥女、エリスは、力なく横たわっていた。最低限の手当てはされているが、一日中監視され、翼と脚は執拗なまでに固定されていた。

「酷い有様じゃないか。契約は切らないのかい?」

 女の虚ろな目が、人影を捉える。

「この身体、気に入っているからねぇ」

 メフィストは、ふふん、と馬鹿にしたように嗤う。

「それでよく、三十年近くも耐えたものだ。その話し方からして、正常に機能しているようには見えないが。その身体は、ずいぶんと適応力があったんだね。君が作るメルムは、最初はただのキメラかオブジェ程度の代物だったが、最近はずいぶんと攻撃的で、怪物としては一級品だった。ぼくとしては、人間をある程度襲うことができればそれでよかったんだが、人間を殺戮する動物には興味がある。どうやったんだい?」

 エリスの顔が輝いた。少し前までは、歳のわりに若く見えた美しい女性の顔も、老いてやつれ、下卑た笑いによって台無しになっている。

「そんなの簡単。人間を少し、混ぜればいい。人間は、殺戮が大好きだからねぇ」

 メフィストはまたしても嗤った。人間は平和を願いながら、戦争をする。縄張り争いの延長のような紛争は、いつしか規則を設けて正当化され、人道を尊重した殺戮にかわる。戦争がなくなったかと思えば、同族を差別して争い始め、罪のない社会を法で固めれば、自由がないと覆す。人間はいつだって矛盾する。

 平穏を手に入れる方法はいくらでもあるのに、彼らはそれを望まない。今や人間を殺すのは、人間の理性だ。

 人間に共通の敵を与えたらどうなるか試してみたいという、メフィストの悪趣味に付き合ったのは、他種との生存競争から脱してもなお、争い続ける人間に辟易したからだ。この混沌に満ちた美しい世界を、秩序立った不和で汚す人間たちに、天敵を与えてみようという酔狂だ。

 しかし実のところ、メフィストの本当の意図はエリスにもわからない。

「あの子にも、いろいろと訊かれたよぉ。あの女神様は、ずいぶん手厳しいねぇ」

「ああ、ぼくも彼女には驚いたよ。それで彼女は、納得したのかい?」

「さぁねぇ。笑ってるから、わからなかったねぇ」

 それは嘘だ。ミコトの目は、精霊であっても恐ろしく感じる。口は笑っていても、その目は敵意に満ちている。どれほど柔らかい言葉を発しても、眼光が殺気を纏う。それ自体が精神であると言っても過言ではない精霊だからこそ、感じるものは大きい。

 あれが千年の時を経て、エルピスが生み出した怪物であり、神なのだ。

「ところで君は、消えたいと思うかい?」

 エリスはゆっくりと、首を横に振って否定した。

「そう。それなら残念だ。君はこの世界で、実在しながらも存在しないことになる。誰にも気づかれず、誰に憑依することもなく、ただこの世界を彷徨う亡霊となる。残念ながら、この世界の出入りを制御できるのは、ぼくだけらしい。ああ、くれぐれも、境界線は越えないように。本当に消えてしまうかもしれないからね」

 エリスは目を見開く。その顔は怯えている。人間らしい顔じゃないか。

「さようなら、エリス。君はもう、どこにも必要ないんだ」

 メフィストは檻に突っ込んでいた腕を引き抜き、痛みの残る左肩を動かさぬよう注意しながら、刀に付いた血液を拭き取った。


 ミコトが地下牢を訪れたのは、収監された翌日だった。失血で朦朧もうろうとしていた意識が戻り、自分の置かれた状況が理解できた直後だ。

 メフィストに頼らなければ、この世界から脱出できないかもしれない。彼はすべてを監視していて、頃合いを図ってメルムを召喚したり、帰還させたりしていたはずなのだ。

 失った左腕が痛み、人間とは不便なものだと痛感した。すぐにこの身体から抜け出せばよいのだろうが、下手をすると、この世界から出られなくなるかもしれない。次の憑代を探すにも、この世界に魔力のある者がいるかが不明だし、この世界で精霊が存在し得るのかも、確証がない。

 そんな絶望的状況の最中、ミコトは現れた。脇には少年を連れている。

「お加減はいかがですか。まあ最悪でしょうね。その身体の女性には、ほんとうに悪いことをしました。と言っても、あれは翼でしたが」

 ミコトは奇妙な微笑で、にこやかに言う。

「あなたにお聞きしたいことがあるので、付き合っていただけますか。まず、あなたはどうして、メフィストに協力しようと思ったのか」

 この娘に語るべき理由など、ない。精霊は自己の利益など、追及しない。ただおもしろいから。人間に干渉することが、存在証明に他ならないから。精霊が為すことの動機それだけだ。

「言ったでしょぉ……。願いを、混沌を、実現するためだと」

 後ろの少年が、ぴくりと動く。彼は確か、他の仲間を皆殺しにした防衛兵の子どもだ。あの時は、メルムを殺しまくる防衛兵というものが気になって、メフィストに頼んで見に行ったのだ。

 彼らは血に飢えていた。ある者は復讐心に燃え、ある者は単に殺したがっていた。それが手に取るようにわかったから、血を与えた。彼らに共鳴し、自分も血を欲した。

 一人だけ、意思のない者がいた。彼からは、何の望みも感じられなかった。彼はなんと憐れだろう、そう感じたのを覚えている。憐憫。自分には似合わない。

「わざわざ、この世界に現れてまで、ですか。外の世界でも、混沌を望む者は山ほどいるのではないですか?」

 もちろんそうだ。だが、彼らの望みは叶えたくない。彼らはけがれている。精霊すら、支配できる気でいる。大した力もないくせに、数だけは多い。

 ふふっ、と笑みがこぼれた。違うな。私の目的は、そんなことではない。

「そうですか。では別の質問を。もしあなたを殺したら、その身体はどこへ還りますか」

 ミコトの目が、底光りする。なるほど、エルピスとは別人だ。穢れた人間に唯一残った希望。彼女に一目会いたかった。

「さぁねぇ……。メフィストに訊いたらぁ」

「そうですね。あなたは利用されていただけのようだし、何も知らなさそうです。これ以上質問しても無駄でしょう。でも最後にひとつだけ」

 ミコトが顔を近づける。その顔は美しく、羨ましいとさえ感じる。そして、恐ろしい。

「あなたには、私の望みも見えていますか? エルピスではない、私の望みです」

 女は黙る。彼女の望みは……見えない。答えられない。彼女は本当に、存在するのだろうか。

 その様子に、ミコトは返答を察したらしい。落胆した様子はなかった。

「まあ、構いません。利用されていたとは言え、あなたが迂闊にも、私たちの目の前に現れたことによって、災厄を終わらせることができる。それもメフィストの意図でしょうけど。彼の酔狂に付き合わされたのは、何とも憐れで愚かではありますが、あなたには感謝しています」

 ミコトがにっこり笑う。微笑ではなく、はっきりと。それなのになぜだか、背筋が凍る。

「女神のご加護を」

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