26 既視感(6)

 彼女はナイフを両手で持ったまま、メフィストを睨み続ける。その両腕を掴まれているので、身動きが取れないらしい。

「演技をしているのかと思ってたよ。だけど君にしては、恐ろしいことをやってのけるものだから、別人だと気づいた。君はそう、ナイフの持ち方も知らないような、清純な女性だったよね」

 メフィストは嘲るように言う。一方、エルピスと呼ばれた誰かは、ミコトの身体で涙を流していた。そのうち、力なくナイフを落とした。地面に生えた草が、音を吸収する。

 あれほど表情豊かなミコトの顔を拝むことができるとは、なんて考えている場合ではない。中身はどうだか知らないが、ミコトがジャスミンを襲っている、わけのわからない状況だ。

「君が望んだのは、ぼくを殺すことだったのかい? この身体を刺し殺しても、ぼくを殺すことはできないよ。わかっているだろうに」

「ええ、わかっていたわ。仮にあなたを殺しても、私はこの呪いから抜け出すことはできない。永遠に死ぬことはできない。我が子の身体に移り続けて、その精神を殺し続ける。私はこんなこと、望んではいなかった。一度でいいから、我が子と、彼と、幸せに暮らせればよかった。それだけだったのに」

 エルピスは泣き崩れんばかりだ。テオはただ呆然と、少し離れた場所で、知らないふたりを見つめている。

「そうか、それは残念だ。喜んでもらえると思ったのに」

 メフィストはほんとうに、残念そうな顔をした。それは駄々っ子を宥めるような、困り顔だ。ナイフを取り落とした腕を放し、膝をついた彼女の肩を支える。

「だけど、終わりにする方法は、いくらでもあるじゃないか。子どもに移るとわかっているのなら、子どもを産まなければいい。転移したときに、すでにその子どもがいたのなら、子どもを殺したっていい。それをしなかったのは、君が望んだからだろう」

 メフィストは言い聞かせるように囁くが、エルピスはその声を振り払うかのように、首を横に振る。

「……できなかった。殺すなんて。我が子に注がれた愛情を、壊すことなんて。我が子の人生を奪っておいて、それを投げ出すなんて。その子どもを、殺すなんて。もう、諦めようとも思った。永遠に生きることを、受け入れようと思った。だけど、彼女だけは違った。彼女だけは、私の希望だった……。私が望んでいたのは……」

 エルピスはぶつぶつとつぶやき続ける。がっくりと肩を落としたような格好で、ジャスミンの身体に寄りかかるようにして。

 静観していたテオは、ふと気づく。足元のナイフがない。

「あなたじゃない」

 ミコトの肘が曲がった瞬間、銃声が響いた。ミコトの白いブラウスに、赤い斑点が浮かび上がる。その右手から弾かれるようにしてナイフが零れ落ちる。倒れるミコトを受け止めるように、支えていたジャスミンが同時に倒れる。


 テオが狙った通り、銃弾はミコトの右肩を撃ち抜き、ジャスミンの左肩をも貫通していた。痛みで正気を取り戻したように、ふたりは目をぱちくりさせていた。

「大丈夫? えっと……」

「すごく痛いけど、たぶん大丈夫。被弾したのなんて初めてだよ」

 テオはほっとした。いつものミコトだった。冷汗をかいていたが、いつもの微笑が戻っている。

「何だ、その弾は。貫通力が高すぎるよ」

 ジャスミンももとに戻っている。テオは苦笑いしつつ、拳銃を見せた。

「これ、ミコトに預かったやつ。ぼくのだと、急所じゃなくても危なかったから」

 城を出る前に、ミコトがこの銃を持っていくように言ったのだ。理由は言わなかったがおそらく、ジャスミンを撃つときが来るかもしれないと予想した。

 結果は少々異なるが、大いに役に立った。この拳銃でなければ、打つのを躊躇ためらっていただろう。おそらくテオは、人を殺すことに躊躇してしまう。狙いを外さない自信はあるので、手足であれば容赦なく撃てるが、それでも胸の近くというのは気を遣うのだ。

 もっとも、あの場面でジャスミンが刺されていたのかも怪しいし、刺されたところで大した傷ではなかったかもしれないが。

 殺せないと繰り返していたエルピスが、あれほどまでにジャスミンを刺そうとしたのには、理由があるはずだと、テオは思った。刺せば何かが起こるなら、撃ってみようという、短絡的な考えだ。さすがに、ミコトがジャスミンを刺そうとしているのに、ぼんやりしているわけにはいかない。

 いや、それは後付けの理由だ。あれ以上、ふたりを喋らせてはいけない気がした。エルピスの言葉によって、ミコトの存在が否定されてしまうような気がしたのだ。だから咄嗟に、例の銃に手を伸ばした。

 そうして手に取った、いかにも女性向けの、小ぶりな銃。そして、市街地では到底扱えない、貫通力の高い弾。預かった時から、こんな威力の弱い拳銃をどの場面で使うのかと、不思議に思っていたのだった。

 そして気づいたのだ。この拳銃は、ミコトが自ら選んだものではないか。自分を撃たせるときのために。あるいは、相手を殺さないために。

 ミコトとジャスミンは、互いに顔を見合わせて、含み笑いをしている。

「あれ、もしかしてふたりとも、覚えてない?」

「いや、覚えている。意味不明だったが」

 ジャスミンが手早く、ミコトの手当てをしている。何だか奇妙な光景だ。

「その話はまた後で。そこのメルムをどうするか、考えなきゃ」

 振り返ると、鳥女はいよいよ意識を失って、まさに虫の息になっていた。


 結局三人ではどうにもできず、騒ぎを聞きつけた衛兵が現場に駆け付け、おののきながらも鳥女を拘束し、地下牢に幽閉することとなった。ミコトとジャスミンは村の医者によって処置を受けたが、弾が貫通したおかげで、どちらも軽傷で済んだ。

 メフィストもエルピスも卑怯なことに、痛いときは引っ込むらしい。彼女たちの謎の別人格が、再び現れることはなかった。

「いったい何だったの? わけがわからなかったんだけど」

 ひとまずあの出来事は、夢ではなかった。

「そうだよね。でもこれで、メルムは現れなくなるんじゃないかな。もう一度、メフィストと話がしたいんだけど」

 ジャスミンが苦笑している。

「もうやめてほしいけど……。それよりいつから、ジャスミンを疑ってたの?」

「あれっと思ったのは、ジャスミンに、メルムがどうして夜に出るか、訊いたときかな。あのとき、ジャスミンが森に近い村ならって言ったでしょ。メルムが出る場所の近くに、森林かそれに準ずる、緑の多い場所があるっていう仮説を立ててはいたけど、私たちは誰にも言ってなかった。単純に、テオが元居た場所に似ているって話をしたからかもしれないし、確信はなかったんだけど」

 どんな片言隻句でも、違和感があれば疑う。勘違いならそれでよし、そうでないならば、その嫌疑から広がるあらゆる可能性を予測し続ける。それがミコトのやり方なのだ。

「私は無意識だったし、今思えば、誰かに聞いて想像した光景なのか、記憶にある光景なのか、判別がつかなくなっていたんだろう。まさか別人格だなんて、考えたことがなかった」

 それはそうだろう。疑問は残るが、精霊とやらについて考えたところで、テオに理解できることはない。数奇な自分の宿命を、すんなりと受け入れているジャスミンも、到底理解できないわけだが。

「まあ最初にあったのは、直感だよ。ジャスミンは私と似ている気がして。類は友を呼ぶって言うし。私はよく、夢で見るんだ。経験するはずのない、誰かの記憶を。それがエルピスの記憶だってわかってるけど、自分の記憶じゃないものが記憶にあるって、わけがわからないでしょ? 自分はいったい何者なんだろうって、昔から思ってた」

 ずいぶん奇妙で深刻な話ではないかと思われるが、ミコトはあくまでも淡々と語る。

「けどもう、どうでもいいかなって。もうすぐ私は、自由になれるんじゃないかって、そんな気がするし」

 テオとジャスミンは顔を合わせてきょとんとする。そのふたりを見て、ミコトが楽しそうに笑う。

「そうそう、ジャスミンが見聞きしたことは、メフィストにも聞こえていたようだから、よく聞いてね、ジャスミン」

 つかつかとジャスミンに近づき、にこやかな表情で対面する。

「そもそもそれが可能かも不明だし、面倒が多そうだから、私はあなたを消そうとは思っていない。けれど私になら、あなたをなかったことにすることはできるはずだ。そしてあなたたちが何かと口にする、望みというのは幻想に過ぎない。余計なことはしないことだね」

 その表情とは裏腹に、声音には凄みがある。ジャスミンは、にやりと笑う。

「そいつは恐ろしい」

 

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