9 傘

 あの日は、八年前の秋の終わりだった。

 朝から雨が降り続いていた。なぜだったかは覚えていないが、その日はちょうど、早く帰宅したのだ。

 雫の滴る傘を置き、家へ上がろうとしていた背後に、いつの間にか制服姿のミコトが立っていた。彼女は閉じた傘を握りしめたままで、全身ずぶ濡れになっていた。

 その異様な姿に、アイクの顔から血の気が引いた。ミコトはいつもどこかをふらふらしているらしく、マグノリアよりも遅く帰ってくる。日が落ちる前に帰ってくるのは、マグノリアに連れられて帰宅するときくらいだ。

「マグノリアが、……」

 アイクにはそれだけで充分だった。彼はミコトの横をすり抜け、外へとび出した。ヒナタはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、ミコトの視線に気づいて、彼を追おうと玄関を出ようとする。

「あなたは、行くべきじゃない」

 それが、ミコトから声をかけられた、最初の言葉だったはずだ。

 彼女は再び立ち尽くすヒナタに凍てつくような冷たい視線を残し、父親を追って行った。去り際に、彼女の手が血で汚れていることに気づいた。

 それから、どれほど立ちすくんでいたのかわからない。使用人に声をかけられてはっとしたのだが、彼らを落ち着かせ、傘を持って外へ出た。



 ミコトやマグノリアが歩く道はある程度決まっている。彼らを捜すのに、大した時間はかからなかった。

 マグノリアは路地裏で倒れていた。その横に、彼女の執事兼護衛のフランクという男も倒れていた。水たまりが、紅く染まっている。

 アイクはマグノリアの脇で膝をついていた。取り乱している様子はなかったが、その背中にかける言葉もなかった。

 ミコトはその様子を、表通りからの入り口付近で静かに見つめていた。養子となって間もない彼女は、マグノリアだけはよく懐いていたが、姉の死を哀傷しているようには見えなかった。彼女の視線はむしろ、フランクに向けられていたのだ。



 マグノリアの死因は銃殺だった。そしてフランクは、銃を用いた自殺だと判断された。彼の頭部を貫いた銃弾は、彼が所持していた拳銃のものだったのだ。

 マグノリアがなぜ殺されたのか、その理由は未だ不明である。状況からしてフランクが殺したのではないかという話もあったが、銃弾が一致せず、別の拳銃による犯行とされた。

 フランクに護衛をさせていたのは、その年の春に起こったクーデターによって、王族や、王室と関係を持つ資産家を襲う暴徒が現れたためだ。オリヴァー家がその対象となることはなかったが、もともと資産家の令嬢ということで、治安の悪化により、誘拐の危険性が高まっていたためでもあった。

 マグノリアとフランクの間に何か特別な感情、いわゆる恋愛感情のようなものがあるのではないかという噂があった。真実なのかは確かめようもないが、フランクの自殺は、マグノリアの死に責任を感じてのことだろう。そうと決めつければ、彼の死因についてそれ以上考える必要はない。

 アイクはしばらく仕事を休んだが、最愛の妻に続き、娘も亡くした父親にしてはずいぶん気丈に振舞っていた。ヒナタが彼の涙を見ることはなかった。

 ミコトは落ち込むどころか、むしろそれまで以上に明るく振舞うようになった。彼女の無表情があの微笑にかわったのは、そのころだ。他人に関心を示すようになり、使用人のエマを慰める様子もあった。

 もとから彼女はおそろしく成績優秀で、学校での素行も悪くなかったらしい。屋敷での様子に反し超然とした様子こそあれ、他の生徒ともうまくやっていたそうだ。マグノリアの死後、表向きと屋敷での顔に区別がなくなったと言うべきなのかもしれない。

 昔の彼女の面影は、中性的な口調と、時折ちらつく鋭い眼光だけとなった。それがかえって、彼女はどうしようもなく父親に似ているという事実を、ヒナタに突きつける。



 目が覚めると、まだ夜明けだった。アイクには年寄りみたいだと嗤われるが、彼ほど長く眠れたらと、ヒナタは恨めしく思う。

 アイクを起こすには早い時間だったので、階段を降り、コーヒーを淹れる。窓辺に立つと、庭の木蓮が見えた。

「おはようございます。相変わらず、朝早いですね」

 エマが郵便物を抱えて立っていた。

「君も人のことは言えないじゃないか」

「私はたまたま早起きしただけですよ。あ、そうだ。ヒナタさんにお手紙です」

「俺に?」

「ええ、ミコトちゃんから」

 ミコトから手紙など、アイク宛にも届いたことがない。訝しみながら手紙を受け取る。

「ミコトちゃん、今は遠くにいるみたいですね。何か重要な要件かもしれませんよ」

 エマはそう言って去っていった。ヒナタには彼女が訳知り顔に見えたが、気のせいだろう。

 コーヒーカップを置いて、手紙を開封する。便箋は思いのほか、空白が多い。

 たった一行の文面に、ヒナタは目を剥いた。

――あなたは何者か

 彼女は知ったということか。いや、思い出したというべきか。

 しかしそうであれば、彼女はすべてを知っているはずだ。ヒナタという男の正体を。

 まだその時は来ていない。そう信じたい。

 そして思い出す。あの日も、雨が降っていた。明確に残る記憶の風景は、いつだって雨だ。

 今日も雨が、降るのかもしれない。

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