8 誰か(7)

 ベゼルという王国、および島の名前は、夕陽が西の海へ沈むとき、夕陽が宝石、水平線がリング、島が石座の指輪のように見えるため、石座を意味する「ベゼル」から名付けられたらしい。

 ミコトからその話を聞いて、テオは毎日のように甲板から夕陽を眺めていたのだが、角度が悪いのか、その光景を見ることはなかった。

 島が見えるほどに到着を目前としたところで、ふたりを乗せた貨物船は海峡の手前にある港町に停泊した。安全に海峡を渡るために手続きが必要なのだ。

 その港町も最近になって初めて、付近でメルムの出現報告があった外縁部だ。港町の中ではないが、メルムが出現したおかげで、以前から世界最悪と謳われた治安はさらに悪化しているらしい。

 港町を根城にする悪党の多くは、海峡を往来する貨物船を襲って生計を立てていた。つまりこの一帯では、海賊が頻繁どころか、ほぼ確実に出没するのだ。

 この地域の警察は腐敗しきっており、海賊を取り締まるどころか、彼らと結託し、金儲けに走った。その結果、警察に通行料を支払うことで海賊から襲われずに済むという、奇妙な仕組みが出来上がった。

 もちろん群がる海賊を蹴散らして通行する船もあるが、船体が大きく足の遅い貨物船は格好の餌食となる。手段を選ばぬ海賊に船や荷物を傷つけられる可能性を考えれば、金を支払った方が無難なのだ。

 その手続きを行うべく、乗組員の一部が町へと出て行った。テオは甲板から、おあずけをくらった犬のように貨物船をじろじろと見ている連中を眺めていた。帽子を目深にかぶったミコトは、双眼鏡を構えて何か見ている。

「ミコト、怪しまれてると思うよ」

「今後関わる可能性の無い他人に怪しまれても、何とも思わないよ。メルムの情報がないかと思ってね」

 テオは並外れて視力が良いので、目を凝らせば大抵のものは見える。

「ビラみたいなのはあるけど、内容までは見えない。あまり期待しない方がよさそうだけど」

 ぼろぼろの壁に乱暴に貼られた写真付きのビラは、どうせ指名手配犯の顔写真か何かだろう。

「まあそうだろうね。行ってみよう」

 テオが驚嘆の声を出す前に、ミコトはさっさと外出の準備をしていた。その意図を察した乗組員が顔色を変えて、ミコトを諫めている。

「大丈夫ですよ。彼らは今、この船に手出ししようとしていません。きっと彼らにも、守るべき規範は存在するんでしょう。通行料を支払う私たちを襲っては、契約違反になりますから」

 乗組員が言いたいのは、ミコトのようなか弱い女性が町に降りたらどうなるか目に見えているということなのだろうが、帝国軍が遣わした謎の麗しい女性に下劣な言葉を発せない彼らは、しどろもどろの説得しかできないようだ。

「有事の際もテオがいますから。もちろん責任は問いません。すぐにもどります」

 ミコトはそう言って、引き留める乗組員を華麗にかわし、テオを連れて船を降りた。



 町の汚さが、すでに治安の悪さを物語っていた。

 そこら中から煙草や麻薬の匂いと、源を想像するのもおぞましい異臭が混ざって、慣れるまでは呼吸すら苦痛だった。テオでそうなのだから、帝国育ちのミコトは耐え難いだろうと思いきや、彼女は相変わらず飄々としていた。

「うーん、やっぱりそれらしき情報はないね。識字率が低いからか写真ばっかりだし、住人から話を聞く気にはならないし」

 ミコトは汚れた街路を気にしていないように見えて、汚物を避けて足を運んでいた。

「もどったほうがいいよ。ここで情報があったところで、ろくな情報じゃないよ」

 ミコトがそうだね、と同意して、踵を返した三秒後には、住人らしき男たちに囲まれていた。どの男も貧相な恰好だが、体格は悪くない。

「めずらしいな。こんなところでお散歩か? お嬢さん」

 最も図体の大きい男が、ミコトを見下ろして言う。刺青がびっしりと入った太い腕は、ミコトの脚より太そうだ。

「よければ案内してやるよ。ガキはいらねえが。良いところがあるんでな」

「結構です。散歩に案内なんぞ、興醒めでしょう。このように周りを囲まれては、景色が見えなくて不愉快だ」

 でかい男は、黄ばんだ歯を見せて笑う。周りの男たちも、にやにやと気味悪い笑みを浮かべている。

「まあそう言うなって……」

 男が手を伸ばし、ミコトに触れようとする。テオは瞬時に、拳銃に手をかけた。

「テオ、後ろを頼んだ」

 一瞬戸惑ったが、考えるより先に、身体が動いた。振り向きざま、男たちの列をなぞるように、五発発砲する。すべて男たちの脚に命中し、後方の五人は地面に転がった。

「上出来だ。よし、逃げよう」

 テオが前方を確認しようと振り返った瞬間、ミコトに手をつかまれ、引きずられるように走り出していた。でかい男を含め、前方の三人は視界に入らない。

「ちょっと待って。何が……」

 走りながら背後を見ると、でかい男が膝をつき、呆然と掌を見つめていた。掌から、いや、指から血が滴っている。指が短くなっているのだ。そして、ほか二人は倒れ込んでいる。

 ミコトは足が速いということが判明した。テオはついていくのに精一杯で、背後の光景について尋ねる余裕もなかった。



 船に戻ると、甲板で慌てふためいていた乗組員たちが駆け寄ってきた。彼らの想像通りの展開になったのだから、無理もない。ミコトは出迎えに礼を言いつつも、彼らを適当にあしらって、客室へ戻っていった。

 ミコトは何もなかったような顔をしたまま、服に臭いがついていないか確認している。返り血らしきものは見当たらない。

「……何をしたの?」

 当然の質問に、ミコトは顔をあげてちょっと首をかしげる。

「見てたでしょ? 前方三人にどいてもらったんだ。あの大男は指を落として、汚い手を引いてもらった」

 ミコトは淡々と言う。

「ぼくが後ろを向いていたのだって、一瞬だったはずだよ。あの間にどうやって……」

「君は五人始末したんだ。私は三人。おかしいことは何もない。ああ、得物のことなら、君はわかっているはずだよ」

 テオは納得できないまま、眉をひそめる。わかるのと、納得するのは違う。

「君に隠してたのは謝るよ。私は護衛をつけるような、か弱い女性じゃないってことだ。あれが私の護身術なんだよ」

「……なんだか、裏切られた気分なんだけど……」

 ミコトが嘘をついていたわけではない。思えば、それらしき言動もあったかもしれない。だが、あの所業は並みの兵士ですらできないはずだ。どうして自分は、ミコトの護衛なんてしている?

「まあそうだよね。教授にも、レベッカさんたちにも隠していたし。だけど、君がいてくれるのはありがたいんだ。さっきはちょっと、あの男が気にくわなくて我慢できなかったんだけど、普段はおしとやかな女性でいたいからね。君に頼っても大丈夫だって、今日わかったことだし」

 ミコトが近づくので、無意識にその手へと視線が移った。細くて綺麗な手だ。

「実を言うと、君にこのことを伝えるために、あの町に降りたんだ。情報が欲しかったのも、ちょっとだけあるけど。ずっと一緒にいて信頼しようって人に、自分を偽るのは疲れるでしょ? 私は穏やかでも優しくもないし、純朴な人間でもない。そういう人って、私にとっては尊いよ。君の前でそういう人間を演じていたら、人格が分裂してしまいそうなんだ」

 ミコトは微笑んでいたが、その目は悲しげだった。

「君がついてきてくれる理由を考えると、私はちょっと不安なんだ。私が他人に演じている姿を君が見ているとしたら、なんだか苦しい。ただ仕事だからっていうほうが、よっぽど気が楽だ」

 テオは言葉につまる。たしかに、最初はミコトのことを誤解していたかもしれない。彼女が言うように、尊い人間の姿を見ていたかもしれない。自分とは違う世界の、穢れを知らない人間。

 しかし、その印象は出会った初日で覆された。それでも、決して不愉快ではなかった。むしろ、彼女の深い部分が気になって、離れられなくなった。その心理は、テオ自身にもわからない。

 自分は何をするために、ここにいるのだろう。望みなんてあるのか。自分の意思は?

 ミコトから預かった銃に、そっと触れる。少なくとも、ミコトから離れる気はない。

「うまく言えないけど、ぼくは、自分のためにミコトについていくんだと思う。メルムのことかもしれないし、別のことかもしれない」

 ミコトは、少し驚いたように目を見開いた、ように見えた。そしてはっきりと、笑った。

「愚問だったね。君の意志は明らかだったのに」



 貨物船は通行料のおかげで、何事もなく出航した。一方港町では、大男の指が短くなったことなど話題にも上らなかったが、亜麻色の髪の女性が降臨したという噂は、数日間男たちを沸かせた。

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