2 誰か(1)

 この世界の中心には、巨大かつ圧倒的な国力を誇る、イーリス帝国が君臨する。この国は唯一の帝国であり、単に帝国と呼ばれることが多い。

 はるか昔、人間は帝国のあるこの地に出現したとされている。人々はこの地で栄え、国を築き、いつしか大陸の半島部分とその周囲という、限られた範囲に拡散した。現在では、帝国のほかに、複数の国家と、点在する自治区が存在する。

 この世界に人間が存在した痕跡は、およそ千年前以降のものしか見つかっていないのだが、奇妙なことに、この世界に残る最古の遺構と、書物に記された最古の歴史から推定される文化レベルが、一致しない。具体的には、最古の歴史のほうが古い。

 最古の歴史が虚構であることを否定はできないが、人間が知性を得て、より高度な道具を発明し、建築物を築くに至るまでの過程が、この世界の遺構が語る歴史に存在しない。つまり、人間が経たはずの歴史が、この世界で行われていないことになっている。

 一般的な仮定として、ある程度の文化レベルをそなえた人間が、どこかからこの世界に移り住んだ。あるいは、およそ千年前、人間はいちど、すべての痕跡を消した、そのどちらかが考えられている。どちらも信じがたいが、前者のほうがまだしも合理的である。

 加えて、人間がこの世界に「移り住んだ」とする神話は、世界中に流布している。この神話は、古くから存在する宗教、アルカ教の教典とされているためだ。信仰の対象としている者こそ少ないが、誰もが一度は聞いたことのある話で、人々の頭の片隅に根付いている。その結果、世界の謎を、そういうものなのだろうと人々に納得させるのに、この神話が一役買っていた。

 しかし、この世界の有様に、疑問を抱く人間がいないはずはない。疑問を呈する者がいないのは、軍や政府が彼らを抱え込んでいるためである。帝国は実力主義を称して、民衆を扇動し得る知識人を、隔離しているのだ。ミコトもそのひとりである。



 帰省から戻り、ミコトは寮に帰る前に研究所へ出向いた。実質的な上司であるギブソン教授に挨拶するためだ。

 居室の扉をノックすると、教授の護衛であるレベッカが顔を出した。ミコトを見るとすぐに、部屋へ通してくれた。

 ギブソン教授は、表向きにはただの生物学者か、遺伝学者ということになっている。偽りではないのだが、彼の研究を突き詰めれば、生物兵器を作ることも可能である。したがって、その内容は秘匿されている。

 研究内容に関わらず、軍の研究者というのは、人質としての価値が非常に高い。帝国は治安が良いと言っても、常に拉致、誘拐の危険と隣り合わせなのだ。

 レベッカは教授の私兵だ。教授は軍が派遣する護衛を断り、わざわざ私兵を抱えているのだ。その真意は知る由もないが、教授曰く、気に入った軍人や傭兵は、独占したい性質なのだと言う。一言で表すと、教授は変人だ。

「早かったじゃないか。もう少しゆっくりしてきてもよかったんだぞ。そうだ、今日の夜、予定はあるか? 前に君に話した、護衛を紹介したいんだ。君がこんなに早く戻ってきたんだ、早めのほうがいいだろうからな。一週間くらい訓練が必要かと思ったんだが、筋が良くてもう充分護衛として役に立ちそうなんだ。君が良ければ、夕食をご馳走しよう」

「ドクター、ミコトちゃん困ってますよ。そんな畳みかけなくても」

 レベッカが助け舟を出す。教授のマシンガントークはいつものことなので、ミコトは困っているわけではない。

「ぜひ、伺わせていただきます。護衛さんともお会いしたいですし」

 今回の任務で帝国を出るにあたり、教授が私兵を貸し出してくれるのだ。護衛とわかりにくい、顔の割れていない新たな私兵を雇うのだと、帰省前に話していたのだが、もう雇ったのかと半ばあきれた。もちろん、顔には出さない。ミコトの流儀である。



 帝国は、その中心部が堅牢な壁に囲まれている。その壁に隔たれているだけでなく、壁を超えるには、様々な手続きが必要になる。この壁が、実質的な国境なのだ。

 壁外には帝国に属する自治区が広がっていて、本来の国境は曖昧である。もちろん、この国境を超える際にも手続きは必要である。

 帝国に攻撃を仕掛ける人間が存在するとは考えられないので、この堅牢な壁が、周辺に国家が形成された時期から存在する理由は、不明である。国境とするには、いささか頑丈すぎるのだ。

 帝国の中心部、つまり壁に囲まれた帝国直属の地域では、他地域と比べ、圧倒的に科学技術が発展している。各地は鉄道で結ばれているため、自動車の普及率は低いが、電力、燃料ともに全地域で不自由なく利用できるのは、壁内くらいである。

 整備された薄暗い街路を、レベッカの運転する車で教授の家へと向かう。

「ミコトちゃん、疲れてるんじゃない? こんな夜に女の子を呼び出すもんじゃありませんよ、ドクター」

「私は構いませんよ。それで、護衛とはどんな方なんですか?」

 教授がにやにやとしているのが、背中越しに感じられる。運転するレベッカも、おかしそうに笑っている。

「それは会ってからのお楽しみだ。警護は専門じゃないが、君にぴったりだと思うぞ。ああ、必要な経費や給料は私が出すから気にするな。私が無理を言って君にこの調査を任せたんだからな。つまり雇い主は私ということになるが――」

「私が言うまで、ドクターはミコトちゃんに護衛をつけようなんて、考えもしてなかったのよ。このご時世に国外へ、しかも外縁部に行かせようって言うのにね。目的地は安全地帯かもしれないけど、こういうことには気が回らないんだから」

 長話を遮ったレベッカの小言に、教授がもごもごと反論を口にしていたが、これもいつものことである。



 屋敷に到着すると、一人の私兵が手を挙げた。ニックと呼ばれる大柄な男だ。ミコトも何度か顔を合わせたことがある。

「ミコトさん、今日来るなんてな。歓迎会のときに見張りだなんて、俺はついてない」

 急な訪問だったが、歓迎会の準備はできているらしい。肩を落とすニックを横目に、玄関へと上がる。

 食卓には、すでに教授の家族と、私兵が集まっていた。夫人の手料理がテーブルいっぱいに広がっている。ミコトが教授に会ってから、それほど時間は経っていないはずだ。

「急にお邪魔しまして……」

「いいのよ、ミコトちゃん。どうせ父が呼び出したんでしょ。うちは人数が多いから、一人増えたところで夕食の準備も変わらないし」

 娘のキャロルがミコトを促す。その間に教授が無線で連絡を取っていたらしく、到着早々、新入りの私兵と対面することになった。何度か屋敷に招かれているが、キャロルと教授は似たもの同士で、せっかちだ。

 私兵達は当然、すでに新人と顔を合わせているためか、どことなくにやにやしている。私兵達は、見張りのニックを除く、レベッカ、ウィル、ドリー、エドの四人だ。彼らは教授のお眼鏡にかなった精鋭で、経歴は様々だと聞く。

「何ですか、皆さんにやにやしてませんか? 気味が悪いです」

「ミコトちゃん、そのにこやかな顔で言わないでよ。まあ、会えばわかるって」

 ドリーが楽しそうに言う。ドリーは若い女性で、キャロル専属なのだが、ふたりが並ぶと姉妹のように見える。

「そろそろお出ましね。お楽しみのご対面ですよ」

 レベッカに背を押され、入り口に立たされる。すると図ったように、扉が開いた。

 入口に立っていたのは、せいぜい十二、三歳くらいの少年だった。

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