一章 悲しい思い出 

1 寓居

 息苦しさに、ミコトは目を覚ました。

 白い尾が、頬をくすぐる。白猫が胸の上にくるまっているのだ。

 起き上がり、すばやく身なりを整える。その間、白猫のシエロは、大人しく見守っていた。

 シエロを連れて部屋を出ると、父の部屋の前にヒナタが立っていた。

「おはようございます、お嬢様。朝早いんだな」

 彼は冷笑を浮かべて言った。お嬢様、というのは嫌味だ。

「おはようございます。起床時間ですか?」

「まあそうだ。お父上にご挨拶するかい?」

 ヒナタは父、アイザック・オリヴァーの友人であり、長年秘書を務めている。人々は彼を「アイザック・オリヴァーの影」と揶揄するが、ミコトはむしろ、黒衣くろごだと考えていた。彼との付き合いも長いが、どうにもつかめない男なのだ。

 アイザックは、とある会社の経営者である。同族経営で、オリヴァー家は国内有数の資産家として知られているが、彼はその中でも、若くして首領を任される実力者というわけだ。

 資産家で端正な顔立ち、さらに寡夫ときているので、彼は自覚していないようだが、後妻を狙う女性は少なくない。しかし持ち前の鈍感さで、のらりくらりと躱しているようだ。そんな彼を、朴念仁と呼ぶ者もいる。

 当然、彼にも弱点はある。寝起きの悪さが、数少ない欠点のひとつだ。人並み以上に睡眠時間が必要な上に、就寝時間に関わらず、朝には滅法弱い。毎朝彼を起こすのは、ヒナタの仕事なのである。

「結構です。お先にどうぞ」

 朝から面倒な仕事を任されてはたまらない。ミコトは足早に庭へ向かう。


 庭にあるベンチに腰掛け、シエロを目で追っていると、使用人のエマが、箒を手に近づいてきた。

「おはよう。朝早いのね」

 エマは箒を置いて、隣に腰かける。

「そう? 皆起きているようだけど」

「私たちは仕事がありますから。帰省した時くらい、ゆっくりしてもいいのに」

「習慣なので。私は寝るのも早いし」

「ご主人様は寝るのも早いのに、なかなか起きて来られないのよ。見習っていただきたいくらいね。今でも毎朝、ヒナタさんが起こしに行ってるの」

「甲斐甲斐しいことですね」

 ミコトは呆れ顔で答えたが、エマは嬉しそうに、屋敷であった出来事を語り始めた。


 シエロは手入れの行き届いた庭の、ど真ん中にある木蓮の木の下でくるまっている。ひとしきり話した後、エマはふと、木蓮の木を見つめ、こうつぶやいた。

「マグノリアが亡くなって、もうすぐ八年になるのね」

 それから彼女は何かを思い出したように、箒を持って仕事に戻っていった。

 マグノリアは、ミコトの姉である。容姿端麗で、誰もに好かれる女性だった。妻を病気で亡くしたアイザックが、何よりも大切に思い、ヒナタが唯一お嬢様と呼んだ、理想的な令嬢。シエロと同様に、ミコトも彼女に拾われて、オリヴァー家に招かれたのだ。

 エマは使用人になる以前、彼女の友人だった。ミコトにくだけた口調で話すのも、そのためである。エマのおかげで、男ばかりの屋敷で、手入れの行き届いた庭が保たれている。

 日が陰り、雲行きがあやしくなってきた。ミコトはシエロを呼び戻し、屋敷へと戻った。


 食堂を覗くと、父が寝ぼけた様子で食卓についていた。すでに朝食が用意されていたので、向かいの席につく。

「おはようございます。オリヴァーさん。調子はいかがですか?」

 彼はぼんやりとコーヒーカップを口に運んでいたが、むせそうになって目が覚めたようだ。

「オリヴァーさんはやめてくれ。いつも通りだよ。君も知っているだろうに」

 彼は会社経営について訊かれていると捉えたようだ。

 そこに、コーヒーカップを持ってヒナタが現れた。

「絶好調だろう、アイク。この前も食事に誘われていたじゃないか。もっとも、お前には女性とお喋りしている暇もないがな」

「? 何のことだ」

 なるほど変わりないようだ。ふたりのじゃれ合いを眺めながら、朝食を口に運ぶ。

「ところで、明日戻るんだろう? また忙しいようだね」

「ええ、まあ。今度は少々長くなりそうです」

 ミコトは軍に属する研究所で、学生研究員を務めている。といっても特別待遇で、ほとんど学生であることが形骸化しているのだが。

 家族であろうと、その詳細を部外者に明かすことは禁じられている。例え危険を伴う任務であっても、明言することは避けなくてはならない。

「そうか。昨今はいろいろとあるから、無理しないようにな」

 彼もそれは心得ているので、詳細を尋ねる気はないようだ。

「まったく、アイクには無理してほしいものだ。この頃仕事量は増えるばかりだと言うのに、勤務時間より睡眠時間のほうが長いんだからな。若い女性と話している暇などない」

「睡眠は重要なんだ。それに、若い女性って誰のことだ」

 ヒナタがこちらを見ているので、全力で無視する。


 今回の帰省は、上司に促されてのことだった。次なるミコトの任務は、国外、それも遠方での調査であり、長期にわたる可能性が高い。出発前に顔を見せておけ、というわけだ。

 その命の通り、顔を見せるための帰省であって、長居する気はなかった。朝食を終え、せめて墓参りにでも行っておくかと、傘を持って出かけた。

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