第38話 失くしたくないから…ですか? ④

 


 何故悪いことほど、予感が当たるのだろう。


 ドナーが椥だったのなら、母が知らない訳ない。どちらも自分の子供なのだから。

 兄のことを聞いた時の惚けた母の顔を思い出し、唇を噛んだ。

 どうしてと聞き返した母が、微かに見せた動揺を見過ごしていた。いつか聞かれると想定していたのか、平静を装う態度にまんまと騙された。


 沙和の命を椥の命で繋ぎ止めることを、どんな思いで決断したのだろう。

 あくまで沙和の考えではあるけれど、子供を二人失くすよりも、一人だけでも生き残る方法を選ぶ以外なかった思う。それは親にとって苦渋の選択だったと知れるけど、生き残る方に選ばれた沙和は複雑過ぎて、有難うと素直に思えない。


 ドナーには感謝した。

 けどそれが椥だと知らなかったからで、今の沙和には兄の死を感謝するなんて出来ない。あまりに酷と言うものだ。

 きっとどう仕様もなかった。解っている。

 それでも思ってしまう。

 兄を―――椥を助ける方法はなかったのかと。


「ごめんね」


 碧が不意に呟いた。沙和が怪訝な顔を向けると、碧は深く頭を下げた。


「一緒に住んでいたのに、彼の異変に気付くのが遅れて。前の日から頭痛が酷いって言ってたのに、大丈夫って言葉真に受けてなかったら、早く病院に連れて行ってれば、椥は死ななかったかも知れない。……本当に、ごめんなさい」


 伏せた顔から雫がぽたぽたと落ち、ワンピースのスカートに染みを作って行く。

 たらればを語ったところで、椥は生き返らない。

 沙和はそんな事をぼんやり考えながら、碧の贖罪を聞いていた。


 感情が麻痺してしまったみたいに平坦だ。

 なのに、心臓がトクトクと脈打っているのだけは敏感に感じ取れる。なんて皮肉なのだろう。

 碧のスカートにじんわりと滲む涙を眺め、沙和はふと思い出したように幽さんを振り返った。変わらず墓石の上で足を組んで座っている彼の表情は、切なく、苦し気に歪んで泣きそうだ。


 幽さんが何かを呟いた。けれど彼らしくもなくあまりに小さな声で、沙和が『なに?』と返すと、幽さんの顔が一層歪む。彼はそのまま面を伏せてしまった。

 幽さんの震える心が伝わって来る。

 湧き上がる様に碧を愛おしく思う気持ちと、彼女を苦しめている事への罪悪感、悔恨と戸惑い、だろうか。

 流れ込んでくる心情が自分の物のように、沙和まで切なくなって胸が詰まった。


「碧さん。お兄ちゃんの写真って、ありますか?」

「え…?」


 詰られることを覚悟していたであろう碧が逡巡し、困惑を浮かべた瞳で沙和を見た。


「写真、ないですか?」


 唐突にそんな事を言い出した沙和を、揺れる瞳が見つめている。沙和は微笑んで碧を見返すと、彼女はバッグからスマホを取り出して操作を始めた。


「……どうぞ」


 差し出されたスマホの画面に目を落とし、「やっぱりそうなんだね」と独り言ちるように呟く。怪訝に瞬く碧を見ると、口角を上げて微笑んだ。ただし、泣き笑いの微妙に歪んだものだったけれど。


(幽さんが、お兄ちゃんだったんだ……)


 外見は沙和が覚えていた兄とは、似ても似つかない。

 子供の頃のまま成長しているとばかり思っていたのだから、二人がイコールになる事はなかった。




 墓前に二人向かい合って腰掛けている。

 碧は自分のせいで椥の死期を早めてしまったと、酷く後悔していた。

 早く気付いてくれていたら、そう思う気持ちがない訳ではない。けど、椥のお陰で命を繋ぎ止めた沙和が、そんな事を言って彼女を責めたところで、きっと空しくなるだけだろう。

 沙和が生きている事実は、変わらないのだから。


 碧に会わなかったら、椥の死を知ることもなく、彼女の痛みにも気付かず、のほほんと暮らしていたかもしれないと思うと、沙和は途轍もなく自分が罪深い人間のように感じた。

 彼女の婚約者の命を貰って生きることへの、贖罪にも似た気持ちが沙和の胸を疼かせて、彼女は胸元を握り締め、息を詰める。

 月命日のたびに墓参りに来ては、謝るしか出来ないと嘆く碧が憐れで、どうにかしてあげたい。少しでも彼女の憂いを軽くしたい。

 その半面で、勝手な思いもある。


(自分が少しでも楽になりたいからって……ズルいな、あたし)


 沙和は俯いた幽さん―――椥を見て、そっと話しかける。


『ゆ……お兄ちゃん?』


 弾かれるように面を上げた椥の潤んだ双眸が、瞬ぎもせずに沙和を見た。


『彼女に、伝えたいこと、あるでしょ? あたしの躰、特別使わせてあげるよ?』


 椥は躊躇いを露わにしながら、じっと沙和を見ている。


『伝えたいから、あたしの所に来たんじゃないの?』


 沙和の口から椥がその思いを語ったところで、俄かには信じて貰えないかも知れないけれど、何もしないまま、ただただ後悔ばかりを引き摺る事だけはして欲しくない。

 椥は成仏することも出来ず、碧は未来さきを見ることも進み出すことも出来ないなんて、そんなの二人とも可哀想すぎる。


「ゆ……お兄ちゃん! 碧さん、泣かせたままでいいのっ!? 結婚したいくらい、好きだったんでしょ!?」


 思わず声に出してしまった。

 墓に向かって声高に言った沙和の顔を、瞠目した碧が凝視している。顔の右側面に痛いくらいの視線を感じながら墓石を睨む沙和の腕を掴み、碧は「椥がいるの?」と震える声で言った。

 沙和はそろそろと碧を振り返り、こくりと頷いた。すると碧は外柵の段から立ち上がり、墓石に向かって居住まいを正すと、額を地面に擦りつけんばかりにその身を倒す。椥は愕然とした面持ちで彼女を見下ろしている。


「椥っ! ごめんなさい、ごめんなさい。どんなに謝った所で、赦される事ではないけどっ。それでも、気付いてあげられなくて、本当に、ごめんなさい!」


 沙和が止める間もなく碧は土下座をし、そのまま泣き崩れた。

 胸がはち切れそうな慟哭。

 椥は碧に近付き、そっと彼女の頭に触れる。その気配に気が付いたのだろうか、碧は面を上げ「なぎ…?」と自分の頭に触れた。椥と碧の手が溶けるように重なり合う。


『……沙和。ちょっとだけ、貸して?』

「もちろんよ。ここまでされて動かなかったら、ゆ…お兄ちゃんを軽蔑するとこだったわ」

『それは困るな』


 微苦笑を浮かべた椥が沙和に手を差し伸べて来る。沙和は小さく頷いて瞼を閉じた。


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