第32話 心残りは何でしょう? ⑥

 


 先に行った幽さんに、躰が引っ張られるようだ。

 心臓はドドドドドとけたたましく鳴り響き、今にも破裂しそうに苦しい。なのに気持ちは高揚している。

 早く早くと響く声に急かされて、ふらつきながらそれでも尚走った。


 沙和が足を止めたのは、五分も走った頃だろうか。

 引っ張られる力がなくなり、沙和はクテッと前屈みになると、膝に両手をついて切れ切れになった呼吸を整えた。

 口から跳ねる心臓が飛び出しそうだ。


(……幽さん、何か、思い出せた、かな……?)


 誰を追いかけて走って行ったのか知らないけど、それが思い出す切っ掛けになりますようにと強く念じた。

 口を大きく開いて深呼吸しながら、幽さんの笑顔を想像する。沙和の表情が自然と綻んだ。

 幽さんが近付いて来る気配がして顔を上げると、浮かない表情の彼がスーッと寄って来るのが見えて、彼女から笑顔が消えた。

 違ったんだろうなと、勝手に解釈して何も言えなくなったと言うのに、次の瞬間、沙和はブチ切れそうになった。


『あ~残念ッ! モロ俺好みだったのになぁ……また会えるかな?』


 少ない好機を逃すことは出来ないと、死に物狂いで走った。

 なのに沙和の元に戻って来た幽さんの言葉ときたら、彼女を労うどころか他の女の尻を追うことに失敗した悔しさを吐露し、沙和にまた会えるか問うてきた。しかもすこぶる色っぽい顔をして。

 沙和の血管がブチブチとキレていく感じがしたのは、きっと錯覚なんかじゃない。


『知らないわよッ!!』


 どんな言葉を掛ければ良いのか、たとえ一瞬でも、苦慮した気持ちを返して欲しい。


(幽さんの記憶に繋がればと思って必死に走ったのにッ! なのに……なのに……ッ)


 病み上がりで運動不足の躰に鞭打って走った。

 沙和に出来ることなどたかが知れている。だから今出来ることを必死にやったのに、何気なく言った幽さんの言葉で全部帳消しにされた。


『幽さんの馬鹿ッ!!』

『えっ。なんでっ!?』


 幽さんがショックを受けている表情を見せ、本当に分かっていないんだろうなと思わせる。それがやけに腹立たしい。


『もお知らない! 帰るっ』


 ムクレた顔で踵を返し、肩を怒らせてズカズカと駅に向かって歩く。後ろから幽さんが『沙和ちゃ~ん』と猫なで声で纏わりついて来るけど、見向きもしなかった。




 帰りの電車の中、ずっと幽さんはしょんぼりしてた。


(……だから! わざわざ視界に入るようにしょんぼりしないでよ)


 目線を合わせてチラチラと、上目遣いで沙和の顔色を窺い、許しを待っている犬のようだ。うるうるさせた瞳が、沙和を居た堪れなくする。

 けど自分は怒っているのだと、無言で訴える体を崩さない。

 しかしどんなに向きを変えたって、通り抜け自由の幽さんに死角はないのだ。故に、幽さんの目から逃げるのに忙しなく向きを変える沙和を、他の乗客が胡乱な目で見るから恥ずかしいし困る。


 試行錯誤の末、沙和は閉め切りの自動ドアの隅に額を預け、眉間に皺が寄るほどぎっちりと瞼を閉じて、幽さんを遮断した。

 たった二駅が永遠にも感じるほど、居心地が悪い。

 耳元で幽さんの溜息が聞こえて、『なあ沙和』と囁くような声に躰がピクリとした。


『なに怒ってるのか教えてくれないと、謝れないだろ?』


 困惑を滲ませつつも穏やかな声色が語り掛けて来る。だからつい気が緩んで顔を上げると、すぐ傍に眉尻を下げた幽さんの顔があった。

 さして混んでいる訳でもないのに、乗客から沙和を守るように幽さんが後ろに立っている。そして幽さんの後ろには微妙な空間が発生していた。


 なんていうのか、幽さんが本気出して “近付くなオーラ” を出すと、人は本能で近付くことを躊躇うらしい。二人で出掛けるようになってから、何度も見た光景だ。

 しかし残念ながら、幽さんが一番遠避けたい篤志と美鈴には全く効かないみたいで、癇癪を起しそうになっていた事は、触れてはならない話題となっている。


 そうなのだ。

 偶に暴走するけど、幽さんはいつだって沙和を守ろうとしてくれる。


(だけど先刻は……)


 完全に沙和の存在を忘れたかのように走り出して行った。

 どんどん、どんどん先に……。

 久し振りに走って苦しいのに、何故か気持ちが昂った。

 早く早くと急かされ止まれなかったのは、果たして沙和の思いだったのか。

 そして彼が見せた表情が、会いたいと仄めかせた言葉が、沙和の心を引っ掻いた。


(もしかしたら……)


 そこまで考えて、沙和は頭を過った言葉を打ち消した。


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