助けてあげられなかったから

 電話を切った後、幸介は急いで倉科駅北東部にある総合病院へやってきた。


 急患入口の自動ドアを通り抜け、小走りでエレベーターへ乗り込む。四階でエレベーターを降り、足早に通路を進んだ。


 病室へ着くと、引き戸を開けて中へ入った。


 ベッドの上にあったのは、愛梨の母親、絵梨の変わり果てた姿だった。


 頭から左目にかけて包帯で塞がっており、肌が見えている右の頬の辺りも殴られたように腫れ上がっている。彼女の右目は閉じたままだ。どうやら眠っているらしい。


 ベッドのそばの椅子には愛梨が腰掛けており、母親の左手を握りながら悲しげに涙を浮かべている。


 愛梨のそばには、亮太と夕菜が立ち尽くしている。


「……幸介君」


 夕菜が悲しげな視線をこちらに向けた。


「何があった……?」

「部屋の外で話そう」


 亮太はそう答えると、俯きながら幸介の脇を通り抜け、病室の外へ出て行く。幸介は何も言わず、彼の後に付いていった。


 廊下へ出ると、近くにあった休憩スペースのソファに並んで腰を下ろした。看護婦や入院患者がたまに通る程度の静かなスペースだ。


「絵梨さんの容態は……?」


 恐る恐る尋ねた。


「命に別状はないけど……酷い怪我をしていて、片目が完全に失明しているそうだ」

「……何故、そんなことに?」

「恋人からの暴力。いわゆるDVってやつだ」


 亮太は思い詰めたような表情で答えた。


「……酷過ぎる」


 思わずそんな言葉が漏れた。


 世の中には子供を虐待する親もいるくらいだ。女性に暴力を振るう男もいるだろう。


 しかし片目を失明させるほど殴るというのはいくら何でも酷過ぎる。失明がどんなに辛いものか、以前の美優を見てきた幸介には理解出来る。片目のみの失明であっても、生活の色々な場面で支障をきたすに違いない。彼女の綺麗な容姿も損なわれるし、周囲の人間からの見方も変わるだろう。


 亮太は、「知っている範囲で話す」と、事情を説明し始めた。



※※※



 愛梨の両親は何年も前に離婚しており、現在彼女は母親の絵梨と二人暮らし。母親は愛梨を一人で養っている。愛梨と絵梨は一緒に買い物に行くこともあるように、とても仲の良い母娘だ。

 

 数ヶ月前、絵梨には新しい恋人が出来た。彼女はとても嬉しそうにしていた。


 母親は離婚してからすでに何年も経つ。彼女はまだ若いし、このまま独り身で生きていくのは寂しいかもしれない。そう思った愛梨は素直に祝福しようと思った。


「どんな人?」

「とても優しい人だよ」

「そっか。良かったね」


 恋人の男はどうやら高学歴のエリート商社マン。真面目で優しい人だと言っていたので、愛梨は安心していた。


 彼女たちは順調に付き合っているように見えた。


 しかし二ヶ月程過ぎた頃、ふと愛梨は母親の腕に青黒いアザがあるのを見つけた。


 愛梨は母親に問い詰めたが、「何でもない。ちょっとぶつけただけ」とはぐらかされた。


 不審に思った愛梨は、注意深く母親を見るようになった。


 ときどき、母親の体には殴られたようなアザが見られた。


「ねえ。そのアザ、彼氏にやられたんじゃないの?」

「……うん」


 愛梨は母親に話を聞いた。


 絵梨の恋人は最初は優しかったが、しばらくすると異常に嫉妬するようになり、束縛が激しくなった。


 他の男性との会話を禁止したり、スマホをチェックしたり、彼女の行動を厳しく制限した。そして絵梨が意にそぐわない行動をすると、暴力を振るうようになった。


 さらに男はプライドが高く、神経質な性格だった。自分より学歴が低い者が口答えしたり少しでも反抗的な態度を取ることに、嫌悪感を持っていた。


 職場でそういったことがあると、ストレスを絵梨にぶつけ、より癒しを求めるようになった。もちろん絵梨が反抗的な態度を取ることも許さなかった。嫉妬や束縛、行動の制限も段々と激しくなった。


「別れた方がいいよ……」

「……うん、そうだね」


 愛梨が気遣うと、母親は同意した。


 数日後、絵梨は恋人の男と別れた。


 しかし男はそれに納得せず、ストーカーのようになった。


 彼は所構わず絵梨に会いに来ると、「寂しい」「愛してる」「戻ってきてくれ」などと言葉を掛けた。ときには自宅にまで会いに来たことがあった。


 絵梨は恋人に対して情があるのか、彼を冷たく突き放すことが出来ず、だらだらと微妙な関係が続いた。


 その後、やはり暴力はなくならなかった。絵梨の体には、アザが見られることがあった。


 愛梨は亮太に今までのことを話した。誰かに相談したのは初めてだった。


「分かった。俺も絵梨さんと話してみる」


 亮太は真剣に母親のことを考えてくれた。


 先日の放課後、愛梨は亮太を自宅へ連れて帰り、恋人と完全に縁を切るよう二人で絵梨を説得した。


「お母さん、お願いだからその男と縁を切って!」

「絵梨さん、愛梨はとても心配してます。もちろん俺もです。もうそいつと会わないで下さい」


 絵梨は「わかった。ごめんね」と謝った。


 彼女はすぐにメールで別れを伝え、もう男とは会わないと言った。まだ不安はあったが、とりあえず納得するしかなかった。


 今日の午後、愛梨は亮太と会い、近況を話した。絵梨がここ数日恋人に会っていないことを話すと、亮太は少し安心した。


 その後、夕菜も呼び出して三人でカラオケへ行くことにした。やってきた夕菜は、何となく浮かない表情をしていた。


「夕菜、何か元気ない?」

「ううん、大丈夫」

「まあ今日は遊んで嫌なことは忘れようぜ」


 カラオケの途中、夕菜にも母親の恋人のことを話した。彼女は「許せない」と、とても怒っていた。


 夕方、愛梨が帰宅すると、リビングには母親が変わり果てた姿になって倒れていた。


 部屋は少し荒れている程度で、金目の物を探したような跡もなかった。



※※※



 はっきり言って頭がおかしいとしか言いようがない。愛する者に暴力を振るい、苦しめることが幸介には理解出来なかった。


 絵梨が自宅のリビングで倒れており、金目の物を探した跡がないことから見ても顔見知りの犯行だ。つまりその恋人にやられたに違いない。亮太と愛梨もそう確信しているようだ。


「こんなことになるなんて、思わなかったんだ……俺は知っていたのに……止められたかもしれないのに……」


 亮太は手で顔を覆う。声は震えており、頬には涙が見える。


「亮太……お前のせいじゃない」

「失明したんだぞ……取り返しがつかない……」

「わかってる……俺も、気付けなかったのが悔しい……」


 思い出すのは、初めて亮太たちを『虹色園』へ連れて行った日の帰り道で、子供たちが虐待されていた事実を彼らに伝えたときのことだ。


 愛梨は何かを幸介に伝えようとしていた。そのときは周りにみんながいたからか、彼女は「何でもない」と話すのを止めた。言いたくなれば言うだろうと思い、特に追及するようなことをしなかった。あれは今思えば、助けを求めようとしたのかもしれない。


 先日愛梨の母親に会ったときには、五分袖の隙間に青黒いアザが見えたような気がした。見えたのが一瞬なので気にしなかった。他に気になるところはなかった。絵梨はとても明るく楽しそうに過ごしていたので、何も問題はないと思っていた。


 そんな小さな違和感を見逃したことが、本当に悔やまれる。少しでも気に留めていれば、美優にもっと監視させることも出来たはずだ。


「何で、俺には相談しなかった……?」


 彼らが幸介に話す義務はない。しかし、自分に相談さえしてくれていれば……そんな考えが頭に浮かぶ。


「……愛梨が、お前には母親がいないから、母親のことは話しづらいようなことを言ってたよ」

「何だよそれ……」


 彼女はいつも明るく、周りから見れば悩みのなさそうな女の子だ。そんな彼女は、誰にも気付かれないところで悩み、他人を気遣っていた。


 亮太はソファに座って俯いたまま動く気配がない。


 幸介はゆっくりと立ち上がると、絵梨の病室へと向かった。病室の扉を開けて室内へ入り、眠っている絵梨の元へと歩く。


 もう一度見ても、彼女は酷い状態だ。腫れあがった顔と巻かれた包帯が痛々しい。


 愛梨も変わらず悲しげな視線を母親に向けており、夕菜も暗い表情で愛梨の隣に腰掛けている。


 幸介は愛梨たちがいる側とは反対側に回り、ベッドに眠っている絵梨に近付く。そして、絵梨の腫れた頬にそっと触れた。


「絵梨さん、ごめんね……」


 腫れ上がった彼女の顔を見ながら、頬を優しく摩る。


「何で、幸介君が……謝るの……?」


 愛梨が幸介を見上げて尋ねる。泣き腫らしたような酷い顔だ。


 夕菜も驚いたようにこちらに視線を向けている。


「助けてあげられなかったから……」


 気付いてさえいれば、助けることができた。その力が幸介にはあった。


「そんなの……幸介君のせいじゃないじゃん……」


 愛梨はそう言うが、幸介は絵梨に対して負い目を感じていた。


 絵梨は世間で弱い者を助けてくれると噂されている『救済者』の存在を信じていた。そんな彼女を、幸介は助けることが出来なかった。失明する程の大怪我をさせてしまった。唯一の救いは、まだ彼女が生きていることだ。


「愛梨、お母さんは大丈夫だから……もう泣かないで」

「えっ……?」


 愛梨は涙を浮かべながら、きょとんとした表情になった。


 幸介はそれ以上は何も言わずにその場を離れ、静かに病室を出た。


 廊下を進んだ先の休憩スペースのソファには、先程と同じように重苦しい雰囲気で俯く亮太の姿があった。


「……亮太、俺はもう行くよ」

「ああ」


 亮太は俯いたまま、小さく答えた。


 幸介は通路を進み、エレベーターで一階へ降りる。


 そのまま病院の外へ出ると、すぐにスマホが鳴った。美優からだ。ゆっくりと通話ボタンを押す。


『お兄ちゃん……愛梨さんのお母さんは、何があったんですか……?』


 美優は幸介の視界を覗いていたらしい。


「……恋人からの暴力らしい。左目が失明してる」

「そんな……」


 美優は言葉を失った。


「大丈夫だ。巧海さんが、もうすぐリアを連れて来てくれる」


 リアがこちらの世界へ来てくれていて本当に良かった。彼女がいれば、絵梨の失明した目を含め、怪我を全て治すことが出来る。


『そうですね……でも、絵梨さんをあんな目に遭わせた人が許せないです』

「ああ。美優、今から秋人とカレンを施設へ呼んでくれ」

『了解です』


 通話を切ると、幸介は施設へ向かった。

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