常に自分より
防具をつけて竹刀を持った幸介が体育館の中央で立つ。その後ろ姿を、秋人は無言で眺める。
今日、休日にも拘らず学校へ来たのは、剣道部との試合に出て欲しいと幸介に頼まれたから。
試合をする理由は聞いていない。
こちら側に剣道部である和也がいることや幸介の性格からして、何か理由があり、和也を助けることが目的なのだろうと思った。
それ以上は訊く気もないし、訊く必要もない。そもそも、幸介の頼みに対しては理由を考える必要もない。
『幸介は常に自分より正しい』
それが自分に刷り込まれた真実であり、信念だ。
だから、秋人は常に幸介に従う。
それが普段のような軽い冗談であれば別だが、彼の言うことが冗談か本気かくらいは分かる。
しかし学校へ来たのはいいが、幸介が試合に出ることになったため、あったはずの自分の出番は無くなってしまった。
元々幸介が試合に出る気が無かったことから考えても、もう自分の出番は無い。
恐らく、彼女ももうすぐ来るのだろう。
自分と同じように、もしくはそれ以上に幸介には逆らわない彼女が。
それで三対三の試合は成立する。
何となく昔を思い返す。
幸介は昔は弱かった。少なくとも、友人たちからは弱いと思われていた。
秋人自身、彼のことを侮っていた。
それは剣の腕のことだけではない。勉強でもスポーツでも、秋人は常にトップであり、幸介はパッとしない平均的な少年だったと思う。
そんな彼を、『奈津』は何故か信頼していた。
奈津はいつもにこにこと笑顔で、元気いっぱいで――、そして、幸介のことが大好きな女の子だった。
彼女は常に誰よりも幸介を信頼した。そして、いつも幸介と一緒にいた。
秋人が嫉妬してしまうくらいに。
最初はそれが不思議だったが、幸介と行動を共にしているうちに、何故奈津が彼を信頼するのかを理解した。
そして、秋人も彼を信頼するようになった。
ある日、秋人が一生忘れることが出来ない程の凄惨な事件が起きた。
その事件で奈津は殺害され、そして、幸介が弱いという認識が一度でひっくり返された。
幸介の信じられない程の圧倒的な剣を見てしまった。
その光景は今でも記憶の中に張り付いて消えない。
あの事件以来、幸介が剣を持つのを見ていないが、その後彼が『向こうの世界』へ行っている間に、さらに剣の腕が洗練されているに違いない。
そんな幸介の本気の剣など、たかが高校の剣道部との試合なんかでは見られないだろう。
左手をみる。
自分の左手には、幸介が連れて来た女の子の手が握られている。
幸介は気付いていないようだったが、この女の子は彼のクラスメイトの妹だ。
「玲菜ちゃん、お姉ちゃんの名前は何て言うの?」
「ん? 夕菜だよ」
「……だよね」
ある程度分かってはいたので、ただの確認だ。
※※※
「石橋、行ってこい」
「はい!」
防具をつけた一人の男子部員が堂本の声に威勢よく応えた。
「おい、どうなると思う?」
「いや、あんな愛好会のやつなんかに石橋さんが負けるわけないだろ」
「だよな。石橋さんはうちの三番手だし」
剣道部の部員たちが口々に話すのが聞こえる。
防具をつけ、竹刀を持って体育館の中央に歩いてくる石橋は、堂本、池上に続く団体戦のレギュラー部員らしい。
初戦でしっかりと三番手を出してくる辺り、一応本気なのだろう。
大将戦は池上対和也ということになっているので、堂本が出てくるとすれば二回戦だ。
出来れば彼に出てきて欲しい。その方がいいパフォーマンスになる。
しかし、一回戦の結果次第で、結局堂本は出てこざるを得なくなる。
歩いてきた石橋が幸介の目の前で止まった。
「……あの、今回は一本勝負でいいんですよね?」
「ああ、それでいいよ」
審判の女子が何やら不安そうに尋ねてきたので、幸介はそう答えた。
彼女は審判などをするのが初めてなのかもしれない。
試合は正式なものではないため、審判は中立で淡々と判定してくれるであろう生徒を、剣道部の女子の中から両方納得した上で選んでいる。
しかし、彼女の審判の経験は関係ない。際どい判定などは必要としない。
幸介が試合に出ると言ったとき、最初に美優が心配そうにしたのは、自分の剣の腕に対してではない。
幸介は『こちらの世界』に帰って来てから剣を持つことを何となく避けており、そのことを彼女が知っているからだ。
※※※
竹刀を構えて両者が向き合う姿を、和也は息を飲んで見守っていた。
幸介は力を抜いて竹刀を持ち、中段の構えを取っている。
石橋の方は幸介を素人だと見なして舐めきっているらしく、竹刀を構えた姿にもどこか余裕がある。
「では、一回戦始め!」
審判の女子生徒の声が響く。
石橋からは幸介が隙だらけに見えたのだろう。
彼はある程度間合いを調整した後、「面!」の声を上げながら、躊躇なく一足飛びで打ち込んだ。
二人の間合いが一瞬のうちに詰まり、石橋の竹刀が幸介の頭上に振り下ろされる。
それが決まってしまうかと和也が思った直後、幸介の身体が動き出す。
パンっと音がすると同時に、石橋の手にあるはずの竹刀はなくなっていた。
はじき飛ばされた竹刀は空中を舞う。
竹刀を振りきった幸介の姿が和也の目に映ったのは、一瞬のことだった。
あまりの速さと瞬間の出来事に、審判も即座に反応することが出来ない。
秒すら刻まない間に、幸介が石橋の頭上に竹刀を打ち下ろした。
飛ばされた竹刀が床に落ち、カラカラと転がる。
「え……? あ、えっと……面ありです……」
遅れて状況を把握した審判の女子生徒が口を開く。
周りの剣道部の部員たちや観客たちも静まり返っていた。
「えっ……? あの、今のは……」
和也は未だに状況を理解出来ず、幸介から視線を外せずにいた。
驚きのあまり、唖然となってしまった。
「ま、こんなもんか」
秋人はどこかがっかりしたように呟いた。
しばらくすると、試合を終えた幸介が戻って来た。
「お兄ちゃん、お疲れ様です」
「ああ」
面を外した幸介に、美優が笑顔を向けて労う。
「こうすけ、勝ったの?」
「おう! 約束通り勝ったぞ。カッコ良かっただろ?」
「うーん。何か速すぎてわかんなかった」
「そ、そうか……」
玲菜の感想を聞いた幸介は残念そうな表情になった。
正気に戻った和也は、興奮を抑え切れずに幸介に詰め寄る。
「……こ、幸介さん! 何スかあれ!? めちゃくちゃ凄いじゃないっスか!」
「お、おう。そのリアクションは玲菜から欲しかったんだけどな」
「いや、あれは速過ぎて普通分かんないっスよ!」
あの速さがこんな幼い女の子に見えるわけがない。普通の大人でも見えないかもしれない。
「まじか……ちょっとやり過ぎたか」
和也の勢いに押され、幸介は若干引き気味に呟いた。
「ま、あんなもんだよ。相手が弱過ぎる」
そばにいた秋人が何でもないように言う。
「え!? いや、あの人剣道部の三番手なんスけど!」
「え、そうなの? こりゃあと二人も大したことないな」
秋人の発言を聞いて唖然となった。
一体この人たちは何者なんだろうか?
和也は井の中の蛙という言葉の意味を初めて理解した。
※※※
試合を見学していた剣道部サイドでは、動揺が混じった騒めきが起こっていた。
「おいおい、石橋さんがあっさり負けたぞ」
「俺、相手の竹刀を飛ばすなんて初めて見たんだけど」
「私も……」
剣道部員たちは未だに唖然としながら、口々に言う。
「もしかしてあいつら強いんじゃ……道着にジャージ着てるけど」
「お前何見てたんだよ。強いなんてもんじゃねえだろ……反則級だ」
「いや、速過ぎて何がなんだか……」
「っていうか、部長の顔見ろよ。固まってるじゃん」
部員たちの視線の先では、堂本が呆然と立ち尽くしていた。
そこへ、石橋が落ち込んだ様子で戻って来た。
「……すいません」
「石橋、どういうことだ?」
面を外した石橋に、堂本が顔を顰めて尋ねる。
「速過ぎてわからないです。気づいたら竹刀が飛ばされていて」
「……そうか。信じられないが、今のは仕方がない。気にせず、あとは任せておけ」
「はい……」
石橋は小さく返事をすると、とぼとぼと隅の方へ歩いて行く。
その近くには、堂本と同様、呆然となっている池上の姿があった。
「マジかよ……何だ今の……」
池上は静かにそう呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます