第59話 エスペロ
サイが初めてその少年に会ったとき、彼はまだ四歳……『人間』換算で八歳だった。
失踪した女を捜すため、それと借金を返すために諸国を巡りながら行商をしている最中のことだった。当時サイはまだ二十代だったが、見た目はもうほとんど今と変わりない。違いと言えば、髪は普通に下ろしていた。
山道を行く途中、突然子どもが熊と対峙しているのを見かけた。
なんでこんなとこに子どもひとりで!? と思いつつ、熊の後頭部へ木の枝を投げ「こっちだ!」と叫んだ。しかし熊は微動だにせず、サイが駆け寄っても動かない。
「あーっ、だめだぁっ!」
と、子どもが唐突に息を吐いた。その途端、熊が低く唸り、上体を起こして襲いかかる体勢になる。サイは全力で体当たりをかましたが、まるで岩壁のように微動だにしなかった。熊から子どもを庇い、その爪が二度かすった。
「坊主、平気か?」
笑ってみせたが、切り裂かれたところが火傷したように熱い。だが組み伏せられるかと思いきや、熊はまた動きを止めていた。
「おっ……さん……いま、にげ」
苦しげな顔で子どもが言い、よく解らないままサイはふらつきながら子どもを抱えてその場を去った。熊は追ってこなかった。
「わるいな! たすかった!」
少年はそう言ってサイを村に案内した。ひと見知りしないたちらしく、道中べらべらと自分のことをまくし立てて話した。多くの子どもの例に漏れず説明とは呼べない情報の羅列だったが、その後、『操作』の修行をしていたのだと言いたかったことが解る。
そして同時に、村の外で力を使うことを大人たちから禁止されていることや、外の人間に力のことを漏らしてはならない掟があることを知ることになる。結果、
「悪いが、あんたを生きて返すことはできなくなった」
ということになった。
「ええぇえ……」
焦りよりも笑うしかない精神状態になり、そんな落ち着き払った態度に村人たちも虚を突かれ、さらに少年が「ころすならさきにおれをころせ!」と出しゃばったこともあり、
「村人として暮らすか、死ぬか選べ」
という選択肢を与えられた。いやそれ選択の余地ないだろ、とは思うだけにしておいた。
実際、方々を巡っても見つからない女と減らない借金に疲れていたというのもある。まあとりあえずしばらくここで暮らしていれば、そのうち違う道も見えてくるだろう、という諦めに近い境地に達していた。
こうしてサイは、その少年、エスペロの家で暮らすことになった。
村だと思っていたそこは国で、集落にしか見えなかったがちゃんと王がいた。ただしサイが見てきたどの国とも異なり、王は他の村民と変わらない農民の暮らしをしており、偉ぶるところが全くなかった。
ただ、長老と呼んだほうがしっくりくるその温和な老人を村人の誰もが尊敬し、親しげに『じいじ』と呼ぶのを見るにつけ、これがある意味では極まった国の形なのかもしれない、と思った。その国、アシュラドはまるでひとつの大家族だった。
国民全員がやたら凶悪な顔立ちだということに気付いたのは、随分経ってからだ。適応能力は高いと自認しているサイは徐々に村へ溶け込み、村人と同じように鍬を振って土を耕し、壊れた家の壁や屋根、家具を補修し、狩りに出た。
村は僻地中の僻地にあり、ひとを捜してでもいなければサイが行くこともなかっただろう。それ故か借金取りの監視役は現れず、そしてそれ故、旅人の話はとても面白がられ、初めは若い者を中心に、やがて好奇心旺盛な中高年以上にも話をねだられるようになった。
あっという間に季節は移ろい、三年の月日が経つころにはすっかり村の一員として受け入れられていた。ブレディアたちにとっては、六年の時間を過ごしたことになる。エスペロは七歳、『人間』換算で十四歳まで成長していた。
その間にサイはブレディアのことも、彼らが『操作』のような、幾つかの魔法のような力を持つことも教えてもらっていた。先天的にどういう力を持つかは生まれたときに決まっており、鍛えることはできても後から身に付けることはできないとのこと。そして、
「あの子の力は伝説でね」
と、あるとき酒を飲みながらエスペロの父は言った。
「伝説?」
「そう。笑っちまうだろ? あんなクソガキだが、我々が待ち望んでいた存在らしい。『操作』の力は、な。だから
「はぁ、それは……良かったっすね」
なにが? という顔をされたがサイは笑うだけにしておいた。労働の尊さを否定する気はないが、名前にするのはあんまりだ、という感覚はこの村にはないらしい。
そのころエスペロとは、
「おい、サイ」
「なんだ、坊主」
「その『坊主』ってのやめろよ。俺はもう七歳だ」
「俺の感覚じゃ、七歳は幼児でちゅよ?」
「お前に合わせて言やぁ、十四だ!」
「だとしても俺の半分以下じゃねーか。年上を敬え」
「ぁあ? 言っとくけどな、俺はおめーより二倍早く成長すんだからな。二十年も経ちゃあ俺は換算五十四、サイは、えーと」
「五十二」
「そうだ! 俺のほうが年上になるんだ。そんときエスペロ様って呼ぶか?」
「呼ばねーよ」
「だろ? なら今だって同じだ。サイ様とは呼ばねえし、お前は俺を名前でちゃんと」
「呼ばねーよ」
「なんでだよ!」
「三年前はちっちゃくて牙も可愛かったのになあ、すっかりチンピラ顔になりやがって」
「てめえ。『操作』すんぞ」
「へっへ、やれるもんならやってみやがれ。ちょっと気合い入れりゃ、跳ね返せるもんね」
「お前がおかしいんだよ! 気功だかなんだか知らねえが、なんか『混じる』んだ!」
という感じで、兄弟とも親子とも違うが、日常的に遠慮なく言い合い、時に殴り合う関係だった。エスペロは『操作』を専らサイに向けて使うことで鍛えた。
村に押し込められている生活ながら、もはやサイにそんな感覚はなかった。穏やかで満ち足りた日々だったと言ってもいい。
しかしその時間は、ある日唐突に終わりを迎える。
サイは結局村にとってはまだまだ余所者だった。心情的には受け入れてくれていた民達も、背負った役割についてはそのときが来るまで明かさなかった。あるいはそれは、サイに対する気遣いだったのかもしれないが。
エスペロが七歳になって半年ほど経ったある日、村を、大きな地震が襲った。
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