第38話 今夜は熱湯風呂
「彼女を追うために足枷を外された俺は、借金の証文をたよりに、足取りを追った。数百に及ぶ貸主を巡れば、なにか手がかりが見つかるだろうってな。
けどさ、解ったのは、ひとつだ。
実際に金を借りたのは、彼女じゃなかった」
「……どういうこと?」
「証文は確かに、彼女が、俺を保証人にして借りたことになっていた。でも……ふ。俺が、解らないとでも思ったのかな。
そこに書かれていたサインは、よく似せてはいたが彼女のものじゃなかったんだ」
「それって」
「俺は長年かけて全ての証文の裏を取り、そこに彼女の痕跡がないことを確認すると、今度は各地の賭場を巡った。行けるところは隅々まで……実はそのときサバラディグにも行ったし、秘境と呼ばれるアシュラドを探し当て、アシュと出会ったのもその旅がきっかけだった。
そっからのことは、端折って話しても長くなるから割愛するけどさ……結果、解ったんだ」
滑らかに言葉を重ねていたサイは、そこで躊躇うように唇を歪ませる。
上下の歯が強く噛み合い、目尻に皺が寄った。
「全ては初めにイカサマで彼女をはめた胴元が仕組んだことだった。
奴らは俺が借金のカタになった直後、彼女を、捕らえていた」
「……え」
「彼女の腕なら本当に借金を返してしまうと恐れたのか、そんなことは関係なく、さらにひと儲けしてやろうと思ったのかは解らない。
とにかく奴らは彼女を監禁し、俺と彼女の婚姻を書類上成立させ、別人を使い、彼女と俺の名義を使い、各地で少しずつ、一般人の信用限度ぎりぎりの水準で借金を重ねていった。もちろんそんなことを繰り返せば、たちまち業界内で噂が回り、ブラックリストに登録されて借金自体ができなくなる。
だから、あり得ないんだよ。数百枚の証文なんてな。
国際社会の端と端にある国で、同じ日に、同じ人間が借金をできるはずがないんだ」
「複数のひとが、なりすましたってこと?」
信じられない、というパニーの顔と声にサイは笑う。
「冗談みたいな話だろ? 思っても実際やる奴なんていない……と、誰もが思う。稚拙で子どもだましな方法だ。けど……証文は実在して、彼女と俺に負債はのしかかった。
そして胴元は、期限が来る日、彼女を消そうとした。
その上で俺に例の、彼女が裏切ったという話をして彼女を憎ませようとした。そうして俺に仮の自由を与え、彼女を追わせながら借金を返済させることによって、各地の借金取りの意識を俺に集中させた。いわば世界中の借金取りが相互に俺の監視をするわけだ。胴元からすれば、手元に置いて強制労働させていると、他の借金取りたちから注目されてしまうリスクがあったから、解放してしまったほうがいいわけだ。自分たちはもう十分に、俺たちの名前を使って儲けたわけだからな。彼女が見つからない俺は、一生旅をしながら借金を返す。途中で死んだとしても、胴元は損をしない。俺が胴元の仕組んだことに気付いたって、証文がなくなるわけじゃないし、どうすることもできない。そう、思ったんだろうな」
「サイ……」
パニーは思わず大きな手に両手を添えた。今にも爆発しそうな横顔がふ、っと緩んで、久しぶりにパニーのほうを向くと、サイはその頭を軽く叩いた。
「奴らにとっての誤算は、一国の軍とも張り合える力を持つ男が存在し、かつ俺がそいつを味方にしたことだ」
「……アシュラド?」
サイはパニーの上目遣いに頷きを返す。
「何年も何年も、各地を巡って、得た情報をひとつの線に繋いだ俺は、胴元が黒幕だと確信し、アシュに力を借りた。奴らは即座に壊滅し、命の危機に瀕した胴元は、俺の推論が事実だとあっさり白状したよ。
彼女を殺し、あまつさえ俺を裏切った悪人に仕立て上げた胴元を、そのときの俺は殺してやるつもりだった。それしか考えられなかった。だが、奴の首に手を掛けた俺を、アシュは『操作』して止めた。そしてこう言った。
『本当に、いいんだな?』
と。
お前がいいと言えば、すぐに『操作』を解く。もう止めないから、殺すがいい、ってな。
俺はもちろん『早く解け』と言うつもりだった。口を開いた。だけど声が、出なかった。
その瞬間彼女のことを思い出した。一緒に暮らしていたときの、他愛もない会話や笑顔、呆れ顔……何故だ、と思った。今こんなのは関係ないだろう、と。
なのにどうしてか、今、この手に力を込めたら、二度と彼女には会えない気がしたんだ。
そしてそれは正しかった。
命乞いと共に、胴元が、白状したんだ」
『殺さないで。俺は、殺してない。あの女は、逃げたんだ。止めを刺す前に』
「命惜しさのでまかせかもしれない。なにせ奴は散々俺に嘘をついてきた。
だからさっき言ったとおり、彼女は、死んでしまっているかもしれない。
仮に奴の言ったことが本当でも、怪我は負わせたらしいから後で亡くなった可能性もある。
だけどもし生きていたら…………俺は、思うんだ。
きっと、彼女は、行ったんだ。国際社会の外へ。
自分の名がブラックリストに載っていない賭場を求めて。
天文学的な借金を返せるだけの勝利を収めるために……なんてな」
「……笑えないよ」
パニーは、ようやくそれだけ言った。サングラスの奥で、サイがどんな目をしているのか想像もつかなかった。
「なら」サイは肩をすくめておどける。「今夜は熱湯風呂だな」
そのひと言に、パニーは無理矢理口の両端を上げた。
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