第5話 子宮の中で眠る双子(下)
それから、直哉のコーラを飲みつつ、携帯電話のカメラで撮った調査結果を見せ合った。料金、外見、設備…。私達は、調査結果一つ一つにやたら大きく笑いながら写真を眺めた。
それでも、時間は潰れなかった。暇を潰せそうな雑誌なんか置いてないし、外を見るための窓があるべき場所は鏡だ。部屋の中で、時間の流れを感じられるものは、何もなかった。
「テレビ見る?」
そう言って私がテレビをつけると、いきなりアダルトチャンネルの映像と音が流れてきた。目隠しをされた女性の胸元に、男性が顔をうずめているのがわかった。甲高い女性の声と、男性の荒い呼吸が部屋中に響く。
「うわ。」
思わず消したのは、私ではなく直哉だった。
「マジ、勘弁。」
直哉は、ケラケラ笑っていた。
その笑顔に全てが詰まっていた気がしたので、私は、部屋の外に出ようと言った。直哉は、あっさり了解した。
「息、詰まりそうだった。」
「あぁ、そう?」
何も考えていないフリをして、返事をした。私もだよ、と言おうとしたが、飲み込んでしまった。
「上行く?」
「うん。」
白い階段を上って、三階に出た。廊下を一周した。
「明るい。」
「うん。」
確認して、四階へ行く。
「明るい。」
「ここもか。」
五階。
「別に、普通になってきた。」
「フロントは相当暗いのにね。」
六階。
「うん。」
私は、黙ってはっきりうなずいた。
「ここで終わりだけど、どうする?」
直哉が聞いてきた。二十センチほど、高い位置から。
「戻る?」
私は、黙ってうなずいた。
それでもやっぱり、実感がない。
ここが、ラブホテルであることも。
隣にいるのが、直哉であることも。
部屋に戻る途中、私は直哉の手を見た。その手は節っぽく、大きく見えた。
だから、少しだけ触ってみた。
直哉は、ただ握り返した。
この廊下で、直哉の感触を初めて知った。
小さい頃は、こうやって手を繋いでいたかもしれない。もしかしたら初めてのことなのかもしれない。とにかく、直哉と手を繋いだことがあったかどうかなんて、この時まで考えたことが無かった。
付き合いが長いから、直哉の事はたくさん知っていると思う。恐らく直哉も、私について多くの事を知っている。それは自慢でも何でもなくて、仕方の無いことだ。連れ込み旅館の子どもとしてあの地域に生まれ、同じ保育園に行き、小学校に行き、そんなことの繰り返しだったのだから。
だから、服を脱いだ直哉の体なんて、考えたこともなかった。細身なのに筋肉質な直哉を、私はベッドに横たわって眺めていた。
鎖骨の下に、ホクロが見える。その辺りを舐めると、深く短い息と一緒に、直哉の体は一瞬震えた。この点では、短期間で直哉の前を去って行った女の子達の方が、私よりずっと詳しいのだ。そう思うと、変な感じがした。直哉はどう?と聞こうとしたが、人の胸に触っている男の子に話しかけても、だいたいロクな返事は返ってこない。だから、放っておいた。
今まで、直哉の肌や唇の感触を、私は知らなかった。よく知ってると思っていたのに、知らないことがたくさんあった。それすら、私はわかってなかった。
直哉の肩越しに、天井を見たことだって無かった。人にキスする瞬間の顔も、ただ快楽に堪えている表情も。何度見ても伝わらない表情があるのと同じくらい、初めて見ても伝わる表情がある。初めて聞いて、全部伝わる声がある。
そういう直哉の感触全てに、私は酷く安心した。別に、ずば抜けて上手に私を触る訳でもないし、ものすごい道具を使った訳でもない。特別優しい訳でも、乱暴な訳でもない。しているのは、普通のことなのだ。
だけど、それだけで満たされていく。興奮とは別に、柔らかく私に溶けていく。
どんなに近づいても、重なっても、境界線はそこにある。
でも、混ざり合えないから、よくわかる。近くにいて、重なっているということが。
そんな事を、言葉じゃなくて感覚で感じた。
ただ、感情の名前は、私にはわからない。
「ねぇ、真弓。」
その時、直哉の息みたいな声がした。
「ゴム、どうする?」
私は直哉を見た。それから、ホテル備え付けのコンドームが入っている引き出しを、二人で見た。同じ家業の親を持つ二人は、目を合わせて笑った。直哉は起き上がって、鞄から財布を出す。
「あった。」
そう言って、直哉が笑った。
「いつも持ってんの?」
うなずく直哉と、私も笑った。どんな顔で、笑っているのだろう。
「負けたね。」
コンドームを付け終わった直哉は、私の上に来るなりそう言った。
「何に?」
「うちらの母親。」
「負けてないよ、五分五分。」
笑った口元に直哉の唇が重なった。
「入れるよ。」
直哉の肩越しに、私は天井を見た。
その天井には、裸の私と直哉の背中があった。首筋を舐められて歪む私の顔だとか、私を触って軋む直哉の背中が、鏡の中でうごめいている。
「あ。」
ふと気がついて、私は声を出した。いつものトーンで出た声に、直哉は驚いて私を見た。
「私が、いる。」
私の指差す方には、裸の私と、直哉がいる。
「あぁ、そりゃあ。」
直哉は、またこちらを向いて続きをする。私の耳元を舐める直哉の肩越しに、私は天井を見る。
私が、二人いる。
そんなわけはないが、そう思った。
私が、二人いる。そう見える。
直哉が、二人いる。そう見える。
そんなわけはない。確かにそこにいるのは、私と直哉だ。
だから、私の体に直哉が入ってくるわけだ。
でも、確かに鏡の中には私が二人いた。直哉が、二人いた。
直哉の体温の中で、そう思った。
そうして、それから先はあっという間だった。
「多分さぁ。」
向かい合って縦長のバスタブに入りながら、直哉は話した。
「保育園か小学校の一・二年までは、俺ら一緒に入ってたよな、風呂。」
聞き覚えのある直哉の声が、ユニットバスの中で響く。その響きを感じながら、私は記憶の糸を辿る。
「あれでしょ。」
糸は、あっさりぴんと張った。
「保育園でどっちかの迎えが来ると、とりあえず私達を二人まとめて連れて帰って。」
「で、二人まとめて風呂に入れてさ。」
私にも直哉にも、父親がいた時代の話だ。私は、直哉の父親と直哉とで、よく相原家の風呂に入った。直哉も、私の父親と風呂に入ったことが何度もある。三人で入っても、バスタブはちっとも窮屈じゃなかった。バスタブが大きかったんじゃない。私達が、幼かったのだ。
「その時の記憶で止まってたら、お前、いきなり女の人になってんだもん。」
「そっちこそ。」
私は、直哉にお湯をかけた。直哉の顔を眺めていると、彼は私を自分の方に引っ張った。私は直哉の足の間に座って、背中で彼の上半身に寄りかかった。私達の声が、柔らかく響く。あまりにも柔らかくて、このバスタブは、誰かの子宮の中なんじゃないかと思えた。
「納得した。」
子宮の中で、直哉が呟く。
「お前とヤってたら、納得した。」
驚いて、私は振り返った。その動きに、直哉は笑った。
「体の相性とは、違うんだろうけど。」
無意識に私がうなずくと、直哉は満足そうに私を抱えた。その感触を、失いたくないと思った。
「私も。」
ぼんやり言うと、直哉がその声を眺めているのがわかった。直哉の手を握ると、握り返す直哉の指があった。誰かの子宮の中で、私達は守られている。それに気付いて、直哉に体重を預けた。
「そうなの?」
「わかんない。」
ふと、直哉と家族になりたいと思った。直哉やミチコちゃんと、私と私の母が、家族になればいいのにと思った。どっちの家に行くとか、誰かと結婚するとかじゃなくって、四人で、新しい家族になりたい。そう思った。
それが一番、自然な気がした。
「とりあえず…。」
その気持ちを内側にしまって、私は言った。
「ユニットバスは、駄目だね。」
心が晴れたように、直哉は私の後ろで笑っていた。
チェックアウトを済ませ、相変わらず暗い受付を抜けると、外には夏が広がっていた。バッティングセンターから、玉を金属バットで打つ音が聞こえる。遠くまで、伸びる音。その音は、少しだけ柔らかく聞こえた。
私達は歌舞伎町を歩き出した。振り返って見たラブホテル街は、じっと夏の暑さに耐えていた。
きっと、それだけじゃない。
内に秘めた人間のドロドロが、外にバレないように、耐えている。この街のラブホテルも、本当は耐えているようだ。
それに押しつぶされないように、光を放つ。
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