393話 氷之大陸へ
「潟。聞こえるか?」
玉座を前にして潟に通信を入れた。この扉を開く前にやることがある。
『はい、雫さま。何かありましたか? もしや漕がまた無礼を働きましたか?』
「添さんを謁見の間に寄越してくれ」
『え、私は……?』
一方的に通信を切ってしまった。添さんを待つ間に、
僕の身が保てるギリギリまで泉の水を抜いた。氷之大陸で動けなくなったら意味がない。
「私を呼び出すなんて十年早いわよ」
勢いよく扉を開けて添さんが来てくれた。見た目に似合わない怪力だ。しかも徒歩で来るには早すぎる。
「水流で来たの?」
「そうよ。潟がやってて私だけ出来ないのはおかしいでしょ? それとも何? 私だけ禁止したいわけ?」
悪びれもせずに言う。水流の移動に文句を言っていたのは誰だ……という突っ込みは野暮だろう。今更だ。
「行くのね?」
玉座の背に刺さった柄を見て、添さんは全て察したようだ。
「うん。行ってくる」
「なに、見送ってほしくて呼んだの?」
添さんは嫌みっぽく言った。それが本心でないことは分かっている。
「涙湧泉の水を可能な限り置いていくから、もし、漕さんが危なかったら飲ませるか、掛けるかしてあげてくれる」
「玉座にかければ良いの?」
「ごめん、分からない」
僕たちが
「分からないの? ……まったくうちの男どもは仕方ないわね。うまいことやっとくから任せない」
ひとまとめに非難されるのはちょっと止めてほしい。でも添さんに任せろと言われることの安心感が断然強かった。
「早く行きなさい。グタグダしてると
添さんが冗談めかしていった。
「それは困るなー」
勿論、潟には感謝してる。頼りにもしている。だから今、黙って王館を任せていける。
玉座にベルさまの気配はある。だからまた王館は大丈夫だ。でも沌のような……いや、そこまではいかなくても、不埒なものが現れないとも限らない。潟に実質的な管理を任せるしかない。
あとは……。
「父上……王館とベルさまをお願いします」
玉座の下へ向かって声をかけた。勿論返事はないけど、今この瞬間も父上は僕のことを見ている。
柄に手を掛け、右に捻った。
「いってらっしゃいませ、淼さま」
添さんが少し離れたところから畏まって見送ってくれた。
返事もせず、振り向かず、柄をひいて扉を開いた。
隙間から冷たい風が入り込んでくる。ただでさえ冷えている王館を、これ以上冷やすわけにはいかない。
素早く身を滑り込ませて扉を閉じた。
添さんの気配が断ち切られた。玉座に留まっていたベルさまの気配もない。まるで分厚い壁の中に入り込んでしまったみたいだ。
真っ暗で何も見えない。自分の足どころか手さえも見えなかった。光が入り込む隙がないのだろう。代わりに時々冷たい風が吹いてくる。
「誰かいませんかー?」
自分の声が反響している。返事は返ってこない。
本当に
間違えてどこかの洞窟にでも通じてしまったんじゃないか?
もしくは、僕が氷之大陸に拒絶されたか。
このまま出口が分からなかったら、どうなるのだろう?
ベルさまは? 漕さんは? 王館は?
ベルさまが王館でキビキビと働いているときはこんな心配なんてする必要がなかった。
つくづく自分が不甲斐なく思えてくる。
駄目だ。落ち込んでいる暇があったら次の行動を考えろ。出口がないなら作ればいい。ちょっと破壊しちゃうかもしれないけど、怒られたらそのときはそのときだ。
足元が地面なのか床なのか、確認するために屈んで手をついた。
「失礼。水太子・淼さまとお見受けいたします」
低い声と灯りがつくのが同時だった。手が触れるか触れないかというタイミングで、突然、足元が明るくなった。
長い廊下だ。その両側を照らすように、低い位置が赤く光っている。
「そうです。ここは
相手が誰だか分からないけど、丁寧な対応をされている以上、こちらも礼儀をもって返すのが筋だ。
「我が父、玄武伯・
なるほど。玄武伯の息子さん……ということはベルさまの兄上。
玄武伯は僕が氷之大陸に入ったことに気づいている。自分の管轄領域への訪問だ。しかも平常なら誰も入ってこない場所だ。気づいて当然と言えば当然か。
案内でもなく、追い返すでもなく、
「相手というと?」
「玄武伯との面会をご所望でしたら、私を越えてお行きください」
カチャ……と控え目な音が立てられた。恐らく剣か槍だ。この狭い廊下なら剣だろう。あまり長くない形状のはずだ。
「淼さまの訪問が理にかなっていれば通れるはずだと父が申しております」
うーん……。多少の予想はしていたけど歓迎はされていない。
玄武伯の地位は太子よりも一段上だと聞いたことがある。
でもその子供は違う。玄武伯の子たちは理王であるベルさまを除けば、一般的な
しかも、ここは自治が認められた
「分かりました。お名前をお伺いしても?」
顔を上げて相手の顔をよく観察してみた。灯りは足元にしかなく、やや影が濃く見える。髪は澗さんと同じ黒髪だろうか。それとも暗くて、そう見えているだけか。
「失礼。申し遅れました。私は
「火の川?」
水精らしからぬ響きに聞き返してしまった。失礼だっただろうか。
「左様です。流れ込めば湖をも沸騰させる川です」
「怖いですね。茹で殺されないようにしないと」
自分の泉を棚に上げて想像したのは、干上がって塩だけになった潟の
潟の湖は僕の泉よりも大きい。僕の本体に手を出されたら、どうなるか分からない。
「淼さまにそんな無礼は働きません。私こそ、淼さまに精製されないよう、留意せねばなりますまい」
「僕にそんな力はありませんよ」
「またまたご冗談を」
和やかな冗談の言い合いに聞こえるけど、正直いって居心地は悪い。
氷之大陸の理力は、今まで僕が感じた世界の理力とは違う。あたりに満ちた理力は誰でも使える理力ではない。
ほとんどが玄武伯の指示を待っている。玄武伯の目となり、耳となり、僕の一挙一動を観察しているようだった。
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