392話 水太子と水先人
漕さんは強い口調の割に穏やかな表情で僕を見ていた。
「そこまで言うつもりはなかったけど、言葉を繕っても仕方がないね」
漕さんの横をすり抜けて、玉座の横へ戻った。僕の立ち位置はここだ。漕さんをやや見下ろす形になった。
「漕さん。率直に聞く。
玉座の肘掛けを見ると、装飾の中に巧妙な細工で紛れているけど、一ヶ所出っ張っているところがある。ここに仕掛けがあるはずだ。
漕さんは黙って頷いた。次に僕が何て言うか、大体わかっているのだろう。
「じゃあ、漕さんは
「出来るで」
即答だ。迷いも憂いも一切ない。清々しいほどの声だった。
「開けた場合、
「死ぬことはあらへんよ。うちの
でも怪我をするのは確実だ。僕はそれを漕さんに頼もうとしている。あくまでもお願いだ。漕さんに断られたら、もう方法が思い付かない。
「じゃあ……」
「ただし、御上の命令が必要や」
「……」
頭を地に叩きつけられた気分だった。期待していた可能性をひと握りで潰されてしまった。
玉座の前も後ろもベルさまの許可が必要か。良い方法だと思ったのだけど、これも駄目だった。
結局、僕はベルさまがいないと何も出来ないんだ。
漕さんは黙ってしまった僕の顔を覗き込むように少し腰を屈めた。
「意地悪言うてるわけやないんよ。でもな、大精霊の居所へ繋ぐのは命がけのお役目なんよ。ほいほいと簡単には出来へん」
坟さんのことを見ていたから、命がけの仕事だということは理解できる。『理解できる』なんて軽々しく言うことでもない。正しい返答が分からなくて黙っていた。
「
「それでも、もし理王にやれって言われたら実行するの?」
「やる」
漕さんは力強く言い切った。ベルさまが命令できないのだから、漕さんが傷つくことはない。どうしてそんなに意を決した目をしているのか。僕には理解できなかった。
「だからな、坊っちゃん。いや、淼さま。御上を助けたければ、即位してうちに命令すればええんよ」
「それは嫌だ」
皆、同じことを言う。ベルさまに代わって僕が理王になったら、ベルさまが理力の
でも今、ベルさまを苦しめているのは世界に流れる理力ではない。例え、
「なんでそないに嫌がるん? 遅かれ早かれ淼さまは理王になるんやで」
漕さんにしては珍しく、挑発するような言い方で僕を掻き立てようとした。
「仮に僕が理王になったとして、漕さんに
理王になったら王館から出られないと言う制約がある。ベルさまの真名を知るために氷之大陸へ渡りたいのに、扉だけ開けて行けなかったら意味がない。
僕だって無闇に漕さんを傷つけたい訳じゃない。
「それもそうやね。だとしたら、もうこの方法しかないわ」
「まだ何か方法があるの?」
また期待して落とされるかもしれない。過度な期待は自分の心の平穏を保つためにほどほどにしておこう。
そう思った矢先、漕さんが殴りかかってきた。
脇へ避けると、ヒュッと音を立てて風が耳を掠めた。
何故とか、どうしてとか聞く前に、長い足がきた。腕を組んで顔を守る。威力は弱いけどすぐに次の一手が来る。漕さんには失礼だけど、あまりスピードはない。
そして何より、漕さんが本気でないことも分かっている。
一瞬攻撃が止んで、姿が見えなくなったと思ったら、人型ではなく魚の姿に
漕さんはクルリと反転し僕に背を向けると、尾ビレで煽ってきた。
「わっ……ぷ」
掴まるものもなければ、踏ん張ることも出来ずに、上座から転がり落ちた。段差の角に後頭部をぶつけたからか、視界が少しだけグニャリと歪んだ。
「ってて……」
「玉座は貰ったで、淼さま」
頭を押さえながら顔を上げると、漕さんが玉座の上に立っていた。そこはベルさまが座る場所だ。固い座面に土足で上がるなど、理王でもマナー違反だ。
「何の……真似?」
やっとそれだけを聞くことが出来た。
「んー、
何故疑問系?
「ほら淼さま、早く止めへんと、うちが玉座を乗っ取るよ?」
御役の経験者は理王になれない。だから漕さんが謀反を起こすなんて有り得ない。漕さんの意図が分からなかった。
動けずにいると、漕さんは困ったように鼻で笑った。
「相変わらず鈍いんやなー、坊っちゃんは。そこがええとこやけど」
漕さんは肘掛けから短刀を引き抜いて玉座を蹴った。高低差を利用して反動をつけ、僕に向かって短刀が振り下ろされようとしている。
じゃれあいみたいな殴りあいとは違う。漕さんか本気かどうかに関わらず、流石にこれは……防がないと僕も怪我をする。
そう思って
宙を舞う漕さんと目があった。
漕さんは短刀の向きをクルリと変えて、刃を自分の方へ向けると、狙ったように氷盤へぶつかってきた。
漕さんの全身を受け止めて、氷盤は砕け散った。
「そ……
「ってててー……」
粉々に砕けた氷を踏んで、転がった漕さんを抱え起こした。
腹には深々と短刀が刺さっている。柄の部分しか出ていない。傷口から淡い光が漏れ始めていた。
「坊っちゃん、早く。うちのこと玉座に上げてや」
「何でこんな……」
漕さんを肩に担いで玉座に運んだ。淡い光は激しさを増してバチバチと音を立てている。
「玉座を狙った御役と揉み合った末、たまたま扉が開いたんよ。淼さま」
回りくどいにも程がある。ベルさまの命令がないからって何もこんなことしなくても……。
「謀反なんて、夫婦揃って牢獄行きやね。……坊っちゃん、右に回すんよ」
漕さんは腹から突き出た柄を指差して光に飲まれていった。
「漕さん、待ってて。なるべく早く帰ってくるから」
光が収まると漕さんの姿はなかった。玉座の背もたれに、ドアノブの役目を得た柄が突き出ていた。
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