390話 ベルの名を知る者

「水門って水の王館と外を行き来するところでしょ? 泥と汢が昔、管理してたって聞いたわよ」

 

 添さんが潟に尋ねた。質問というよりも確認といった方がいいかもしれない。

 

 昔、焱さんと一緒に里帰りしたとき水門を開けてもらった。土の王館に預けられていた泥と汢に、初めて会ったのはあの時が初めてだ。

 

「その……王館の水門ではなく、ご自身の水門だそうです。私も詳しいことは存じませんが、御上のお父上や兄上方は、皆さま水門をお持ちだそうです」

 

 そもそも水門って持ち物なのか?

 僕も水門なんて持っていない。

 

 どう理解をすれば良いのか……潟の説明だけだとよく分からない。

 

「御上は水門がないため、真名を呼ばれたり、気を抜いたりすると、理力が垂れ流しになってしまうのだとか」


 添さんは潟の服の端を掴んでいた。恐らく無意識だろう。指摘しないでおいた。

 

「じゃあ、もし今の状態でうっかり真名を呼んだら……」

 

 想像するのも恐ろしかった。

 

 ブルッと勝手に背中が震えたのは寒さのせいだろうか。それとも未知の恐怖を思ったからか。

 

「そ、それはともかく……ベルさまの真名を知っている精霊ひとはいないかな? もしくは記録されているものとか」

 

 潟は王館勤めが僕より長い。古い精霊に知り合いがいてもおかしくない。

 

 添さんには少し前に、水の星の資料を漁ってもらった。その中にベルさまの名について触れているものがあったかどうか。


「何を言ってるの。そんなものないわよ。あったら私だって御上の真名を知ってるわよ」


 添さんがちょっと呆れたように言った。それもそうだ。調べている最中に分かったに違いない。

 

「潟は心当たりない?」

 

 先生も知らなかったというのだから、期待値は低い。案の定、潟は首を横に振った。

 

「父も知らないとなると、雨伯もご存じないでしょうね」

 

 雨伯以上に古くて力があり、かつベルさまから信用されている精霊しか、ベルさまの真名を知り得ない。

 

 そんな精霊がいるのか?


 雨伯だって最古参と言って差し支えない精霊なのに、その上となると……。

 

 立太子の儀で最前列に座っていた精霊たちだ。

 

 元理王の孟位エクスとベルさまが認めた伯位だけが、座ることを許されていた。三人で座れそうな氷の椅子にひとりで広々と座っていた。場所を取った割には、確か十人にも満たなかったと思う。

 

 養父上は真ん中の席を宛がわれていた。その雨伯よりも左側が上座になっていたはずだ。

 

 それでも二、三人だ。雨伯の左隣は確か大河の都伯みやこはくらくどのだ。視察へは行っていない。ベルさまや潟の話によると大河の中に都を構えていて、大勢の低位精霊を養っているらしい。

 

 洛どの自身は何百年も問題を起こしたことがない上、自分よりも年若い理王に対して忠誠心が厚い。勿論、流没闘争時も悪事に手を染まることはなかった。領政の多忙を理由に王館勤めは全て断っていたという。

 

 領政の多忙と聞くと、理王に干渉されたくないのかと疑ってしまうけど、抱える精霊が多過ぎて本当に忙しいのだとベルさまは言っていた。

 

 都伯よりも雨伯の方がやや古い。確か雨伯から僕が見やすい位置に席を用意してもらったと言っていた。だから多少の前後はあったのだろう。

 

 その更に左側は空席だった。漣先生に用意された席だ。今思えば、あの時すでに恒山で人間の侵入を防いでいたのだ。立太子の儀に来てくれないと嘆いている場合ではなく、僕が先生の元へ行くべきだった。

 

 カオスではないけど、もし時を戻せるならあの時に戻って先生を助けに行きたい。でもそれは叶わぬ望みだ。

 

「雫さま?」

「眉間にシワがよってるわよ」

 

 潟夫妻が僕の顔を覗き込んでいた。

 

 頭が過去に戻っていた。過去のことより未来さきのことを考えないと。

 

 急に頭を振って思考を戻した。潟夫妻の心配そうな視線を感じたけど無視した。

 

「先生よりもベルさまの信頼を受けていた精霊となると……あの精霊ひとだ」  

 

 立太子の儀で最も左側の席に座っていた精霊。その場所は理王経験者である先生よりも上座だ。

 

嘆きの川アケローンの澗どのですね」 

「玄武伯名代のこと?」

 

 添さんが僕に確認をする。今度は添さんの眉間にシワがはいっていた。聞き間違いではないか確認したいようだ。

 

「そう。正確にはけんさんだけど、玄武伯の名代として立太子の儀に出席していた。雨伯よりも格上ってこともあるけど、何より身内なら真名を知っているはずだ」

 

 澗さんはベルさまの兄だ。儀のあと、慈愛に満ちた目でベルさまを見ていた。仲の良い兄弟だったに違いない。

 

けんさんに連絡を取れないかな」

「それは出来ないわ。御上が兄上に資料を送ってもらったから、氷之大陸オーケアノスに投獄されるだろうって言ってたわよ」 

 

 添さんの言葉で戦闘中のベルさまを思い出した。

 

 ーー持出禁止の記録書を兄から送ってもらった甲斐があったというもの。兄は今頃、氷之大陸オーケアノスルールに従い、罰せられているだろう。お前のせいで。

 

 ……最後の一言に恨みがこもっていた。

 

 それを考えるとやっぱり仲は良かったみたいだ。何とかして澗さんと繋がってベルさまの真名を聞き出したい。


「難しいですね。氷之大陸オーケアノスは自治を認められています。理王と言えど口出しすることは出来ません。澗どのの釈放を依頼することは不可能です」 

「連絡を取ることは?」

 

 自分で言っていてなんだとは思うけど、氷之大陸の罪人と連絡が取りたいなんて冗談も良いところだ。

 

「……ただでさえ氷之大陸オーケアノスの関係者は王館に干渉するのを嫌います。余程の理由がなければ」

「自分の子が危ないのは余程の理由じゃないのか?」

「そういうわけではありませんが……」

 

 潟に言っても仕方ないことだけど、つい詰め寄ってしまった。潟が困っているのを見て少し冷静になった。

 

「澗どのじゃなきゃダメなの? それこそ玄武伯本人とか」

「添。話を聞いていましたか? 氷之大陸オーケアノスのトップである玄武伯が王館と喜んでやり取りするとは思えません」

「自分の子が危ないのに?」

「私に言わないでください」

 

 つい潟を責めるような口調になってしまうのは添さんも同じだった。

 

「それにもっと問題が……あの場所は地図には載っていません。御上以外が使いを送ることは出来ないと思います」

「え?」

 

 地図にないってどういうことだ。

 

 以前、五山の地図を見せてもらったことがあったけど、氷之大陸オーケアノスの表記は…………確かになかった。


「自治が認められている大精霊の領域は地図に載っていないのです」

「地図にもないのにどうやって行くのよ」

「私に聞かれても」


 地図に載せないのは、理王が干渉しない領域だという証明だろうか。理王はどうやって知らせを出していたのだろう。

 

「玄武伯の氷之大陸オーケアノスもそうですが、朱雀伯、白虎伯、青龍伯、黄龍伯すべての領域で……」

「待って、今何て言った?」

「え?」

 

 潟の言葉の一部が引っ掛かった。何か大事なことを聞き流した気がする。

 

「えーと……玄武伯の氷之大陸オーケアノスもそうですが……」

「その次」

「朱雀伯、白虎伯、青龍伯、黄龍伯すべての領域で……」

「黄龍伯!」

 

 黄龍伯の場所なら分かる。

 玄武伯のところへ行けるかもしれない。

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