389話 ベルの名

「潟とはいつごろ知り合ったの?」

「義父上が現役の理王だった頃よ。理王の息子だなんて知らなかったけど……潟ったら何年もフラフラと放浪してて、勝手に巣穴に入ってきたよ」


 それは不法侵入だ。しかも理王の息子がフラフラしていると……先生の評判が悪くなりそうだ。


 添さんは潟から布を回収した。鼻血は止まったらしい。


「ぞえヴ……余計なごどを」

 

 鼻がゴトゴトと音を立てて潟が何を言っているかよく分からない。添さんが潟をソファにねじ伏せ、新しい布を鼻に突っ込んで黙らせた。

 

 なかなか強引だ。でも根底に愛があるから許される。


「追い出そうと頑張ったんだけど、あれよあれよという間に朝だったわ」

 

 アレヨアレヨ……の内容を詳しく聞きたいような聞きたくないような。


「その後、流没闘争に巻き込まれて自分の領域すあなをなくしてね。ウロウロしているところを潟と再会したのよ」

「それで魂繋たまつなをしたの?」

 

 添さんは少し悩んでから頷いた。

 

「世の中が混乱してたし、義父上もお役目を退いたあと引き込もってしまったし、すぐってわけにはいかなかったけどね。魂繋したらしたで、すぐに王館から呼び出されるとは思わなかったわ」

「ごめんてば」

「感謝してよね」

「ありがと」

 

 添さんとの掛け合いが楽しくなってきた。添さんが僕に心を開いてくれたのだろう。

 

 いや、もしかしたら僕が勝手に苦手としていただけで、添さんはとっくに歩み寄ろうとしてくれていたのかもしれない。

 

「それで? 聞いてきたってことは、このタイミングで御上と魂繋する気なの?」

 

 やっと本題に入れた。落ち着いてと言われてから我慢していたけど、こうしている間にもベルさまは少しずつ危機に近づいている。


「うん。僕がベルさまの理力を引き受ければ、助けられるかもしれない」 

 

 沌にそう言われたということは伏せておいた。昨日の敵からの助言だと知ったら、反対されるかもしれない。わざわざ言わなくても良いだろう。

 

「確かに……魂繋をすれば御上の理力は一時的に下げられます」

 

 潟が凄まじい腹筋力をみせて起き上がった。端正な顔に血を拭き取ったあとが残っている。

 

「魂繋とは文字通り魂を繋ぐことです。その際、互いの理力が交わり、御上の理力が雫さまへ流れ込みます」

 

 添さんが潟の顔を拭おうとして失敗した。乾いた布で拭き取れなかったようだ。潟の鼻の下は、摩擦で皮膚が擦れ、赤くなっていた。

 

「僕からもベルさまに理力を渡すことになるのか?」

 

 増えてしまったのでは意味がない。意味がないどころか逆効果だ。

 

「仰る通りです。しかし、失礼ですが……雫さまから御上へ渡す理力量よりも、御上から雫さまへ流れ込む理力量の方が勝ります」

 

 ベルさまと僕とでは理力量が桁違いだ。ベルさまの方が断然多い。そんなことは言われなくても分かっている。だからこそ助けられる可能性がある。

 

「今の御上の理力を考えると、雫さまのおからだに相当な負担を掛けることになります」

「それは覚悟の上だ。具体的にどうすれば魂繋出来るのか教えてほしい」

 

 形式的なこと……例えば手続きとか挨拶とか、そういうことは省いたとして、魂繋が成立するための絶対的な条件が何かがあるはずだ。


からだを繋ぐより簡単よ。真名を交換すれば良いんだから」

 

 添さんが布を濡らして再び潟の顔を拭いた。適度な湿り気を帯びた布は、しっかり血の汚れを拭き取った。


「真名の交換?」

 

 嫌な予感がしてきた。

 

「そうよ。交換っていっても本当に交換するわけじゃないわ。お互いの真名を知った上で魂繋を宣言して。はい、おしまい」

 

 添さんはあっさりと説明を終えたけど、僕は内心焦っていた。

 

 ベルさまの真名を知らない。どんなに記憶を辿っても、ただの一度も真名を聞いたことがない。


「あと強いていうなら魂繋する意思の表明と、それを確認する立会人が必要だけど、今更必要ないわね」

「我々の前でイチャイチャなさって何度理性を試されたことか」

 

 夫婦の会話を放置して自分の記憶を掻き出す。聞いたことがなくても、書面か何かで見たことがあるかもしれない。

 

 でも残念ながらその記憶もなかった。理王の名が記録されている一覧だって、現役の理王と初代理王の名は書かれていなかった。


「ちなみに他の方法は?」

「知らないわよ。逆に他に方法があるの? 聞いたことないわ」


 真名を使わない方法がないか、ダメ元で聞いてみたけど、やっぱりそんなものはなかった。

 

「なんなの?」 

「御上の真名を知らないんだ」

 

 添さんはまばたきを数回繰り返して、潟と顔を見あわせた。


「いつも御上のこと愛称で呼んでるじゃない? なんで知らないのよ?」

 

 立太子のとき、淼と呼ばないように言われてからずっとベルさまと呼んでいた。流石に真名が呼ばれるのはまずいと言って、愛称を教えてくれたのだ。

 

 それからずっと真名に触れることはなかった。

 

「理王という地位にある以上、気安く言えなかったのかもしれませんね。父も知らないと……いや、待てよ」

 

 潟が突然何かを思い出したようだった。手袋をはめた手を顎に添えて、視線は床に落とされている。

 

「どうした?」

「いえ、御上の真名は父も聞かされていないと申しておりました。立太子や即位の際には真名をもって宣誓することが常ですが……」

 

 それはそうだろう。太子や理王という役目を魂に刻むのだから、真名を用いるのは当然だ。

 

「確か……御上は父から太子に任命された際にも、真名を告げることを拒否したと」

「それで問題なく立太子出来るものなの?」

 

 添さんがソファの背に上半身を乗せて潟に尋ねた。僕も知りたい。

 

 潟は尋ねた添さんではなく、僕の方を向いて答えた。


「その後問題が生じたかどうかは分かりかねますが、御上が太子、そして理王へ就いたということは問題なかったのではないでしょうか」

 

 見せてもらった過去の光景を思い返すと、形式ばかり気にする重臣や側近がうるさそうだ。でもそういう外野はともかく、立太子する上で、世界との繋がりや理力の流れなどは問題なかったのだろう。


「ベルさまはどうしてそんなに真名を隠したがるんだろう」


 それは本人に聞かないと分からないことだ。別に潟や添さんに答えを期待したわけではないけど、潟から答えが返ってきた。

 

「父から聞いた話ですが、真名を呼ぶと理力が溢れだすとか」

「……怖いわね」

 

 添さんがブルッと身震いをした。また室内が冷えてきたのかもしれない。

 

「御上が理力を垂れ流していた件は以前にお話したと思いますが、その比ではないそうです。範囲は分かりませんが、地域一体が水没するという噂でした」


 どのくらいの地域かにもよるけど、そんなに小さな範囲ではなさそうだ。

 

「ご実家でも真名が呼ばれることは、まずなかったと仰っていたそうです。あくまでも父から聞いた話ですので、真偽のほどは分かりませんが……」

「何でそんなことに……」

 

 ベルさまが気の毒になってきた。自分の名を呼ばれただけで辺りが水没する。そのために名を呼んでもらえない。名は誰かが呼んでくれることに意義がある。

 

 誰にも触れてもらえないなんて、孤独感に支配されそうだ。


「御上には水門がないそうです」

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