231話 火の執務室で
その日の夜の内に泥・汢と顔を合わせておいた。予想外に一日で帰ってきた僕を見て、二人とも喜んでくれた。でも残念なら再び留守にする旨を伝えてある。二人の落差が凄かった。
潟さんは一旦帰らせた。添さんのこともあるけど、地獄がどんなところだか分からない。もしかしたら、しばらく帰れないかもしれない。だから同行するなら、それをちゃんと伝えてくるようにと言った。
移動は一瞬だし、支度も特にない。朝一で戻るよう伝えると、潟さんは素直に帰っていった。
あとは僕が紹介状を忘れずに持てば良いだけだ。泥・汢は眠いのを我慢して、僕と話し込んだ。途中、船を漕ぎ出したので休むように言ったけど、床につきたくないみたいだった。
僕も誰かと会話したい気分だった。ちょうどいいので、付き合ってもらうことにした。
「二人は土の王館にいたとき、『地獄』とか『黄龍の場』とかについて何か聞いてる?」
僕がそう尋ねると二人は首を振った。
少しでも情報が欲しかったけど、潟さんでさえ知らないことだ。二人が知っている可能性は低い。
二人が申し訳なさそうな顔をしているので、全然関係ない話で気を紛らわせた。他愛のない話をしている内に夜は更けて、泥と汢は椅子に座ったまま眠ってしまった。
二人が眠り始めた頃、
「
二人を起こさないよう小声で挨拶をする。挨拶ついでに手を伸ばして、坟さんが植木鉢から這い出るのを手伝った。
「おはようさー」
潟さんもまだ来ていない。呼び出そうかと思っていると、坟さんはすぐには出発できないと言った。
「木太子が同行したいって言ってるさー」
「
地獄ってそんなに人気のあるところなのか。
「木理皇上の縁者の件で黄龍の力を借りたいと言ってるさー。そんな易々と開く場所じゃないけど、今回は水太子が行くついでさー」
簡単には開かれない場所という言葉に引っ掛かりを覚える。今の言い方だと普段は封鎖しているか。それとももっと強力に封印しているか。
行くのが怖くなってきた。
「という訳で、
「あ、ちょっ、
坟さんは用件だけ伝えると、植木鉢の中へ潜って行ってしまった。地獄のことを色々聞きたかったのに残念だ。
中途半端に自由時間が出来てしまった。まだ日が昇ったばかりだ。夕方までかなりある。
事務処理は特にない。ベルさまの仕事を手伝う訳にもいかない。侍従の時には手伝えたけど、王太子になってからは業務がきっちり分けられている。無闇に手は出せない以上、ベルさまの側にいたらお仕事の邪魔になってしまう。
無性に誰かと話したい。
未知の場所に行く前に日常に触れておきたい。
夜通し語り合った割には話し足りない。ふと側仕えを見ると、口を半開きにして熟睡している。流石に泥と汢を起こすのは可哀想だ。
「焱さん、暇かな?」
火太子を捕まえて
貴燈山で激とその仲間たちを捕らえて以来会っていない。いや、厳密に言うと姿は見ている。ただ忙しくて、じっくり話している時間がなかったのだ。
しばらく会っていない先輩の顔を思い浮かべた。それだけで勝手に水流が湧き上がる。
「ちょ、ちょっと待った!」
まだ移動する体勢になっていない。僕の言葉を無視して体が水流に包まれる。あっという間に水に覆われ、視界が開けたと同時に尻餅をついた。
「あ痛っ!」
「雫!?なんでこんなとこに出てくんだよ!」
近くで焱さんの驚いた声がする。移動自体は成功したみたいだ。
「痛たた。……焱さん、久しぶり」
痛む腰を擦りながら、焱さんに片手を上げる。不思議と焱さんの顔が少し低い位置にあった。また僕の背が伸びたのかもしれない。
「久しぶりじゃねぇよ。机から下りろ、机から!」
腕を引っ張られる。床に足が着くと、焱さんの頭が高くなった。どうやら僕が尻餅をついたのは焱さんの執務机だったらしい。お行儀が悪い。
焱さんと机を見比べる。焱さんに事務作業は似合わない、とちょっと失礼なことを思ってしまった。
書類が散乱しているのは、僕が今着地したからだろう。巻き込まれなかった箇所は綺麗に整理されていた。焱さんのこういうところは結構几帳面だ。
「おい、それを片付けておけ。それと水太子に茶を用意しろ」
焱さんが誰かに指示をしている。誰がいるのか確認する前に、掴まれたままの腕を引っ張られた。
水の王館の執務室と造りは違う。でも寛ぐためのソファが置いてあるのは一緒だ。焱さんに窓際の席を薦められた。二人で向かい合ってゆっくり話すのは久しぶりだ。
「ごめんね。仕事の邪魔しちゃって」
ベルさまの仕事の邪魔をしないようにと思って避けたのに、被害者が焱さんに変わっただけだった。
「いや、大した仕事じゃねぇよ。小事ばっかりだからな」
ふと温かい気配を感じた。背後になってしまった机を振り返ると、ひとりの火精が机を片付けていた。
次いでカチャと控えめな音が聞こえる。体を戻すと、別の火精が茶器と焼き菓子を並べていた。その作業を黙々とこなし、僕に一礼する。
「もういいぞ。下がれ」
焱さんが手をヒラヒラさせると、ポンッと軽い爆発音を立てて消えた。
「焱さんの侍従?」
「あぁ。……お前も下がっていいぞ。あとは俺がやる」
僕の後ろで同じような爆発音がした。今、振り向いても誰もいないだろう。
焱さんは前に三人の侍従がいると言ってた。その内の二人なのだろう。
「で、何か用か?」
「用って言う用はないんだけど、何してるかなと思って」
暇潰しだとはとても言えない。
「まぁ、見ての通り雑務だな。雫も王太子になったから分かると思うけどよ。視察に行った後の記録とか、結構面倒だよな」
面倒とは思わない。まだ記録を作ること自体に慣れていないから、面倒よりも緊張だ。でもここは話を合わせておこう。
「そうだね。視察の内容をどこまで細かく書いたら良いか、迷うことあるよね」
「だよな!」
焱さんが食い付いてきた。思ったよりも返しが良かったみたいだ。共通の話題が出来たことで話の幅が広がった。
「前の記録と事実が食い違った時なんか、更に面倒臭ぇよな。太子でコレなら理王になったとき、どうなんだよって感じじゃね?」
「……そ、そうだね」
残念ながら、新米太子にそこまでの経験はない。
誤魔化すように茶器に口をつけた。先程から良い香りがしていたので、紅茶だと分かっていた。酸味の中にほんのり甘さを感じる。これは砂糖ではなく蜂蜜の甘さだ。
この酸味は覚えがある。
「
竜宮城で飲んだことがある。あのときは自分で蜂蜜やジャムを入れて飲んだ。
「あぁ、時々おじーさまが送ってくれんだよ」
やっばり竜宮城で飲んだのと一緒だった。少し懐かしさを覚えた。
「そうだ。おじーさまといえば……一応、
義叔父上と焱さんが冗談めかして僕を指す。家族性を強調したい時の呼び方だ。
懐かしいお茶をもう一口含んだ。
「俺、結婚するわ」
「ぶーーっ!」
盛大に吹いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます