198話 今手川の父娘
天形盆地から西よりに北上していると、風がだんだん冷たくなってきた。外套を持ってくるべきだったかもしれない。
それにさっきから川らしいものが見えない。川よりも山の方が多いような気がする。遠くに見える山には雪が積もっていた。
「確かこの辺りのはずなんだけど……」
約束の時間ギリギリだ。細かい時間は指定していないけど、午前中に訪問すると伝えてしまった。
すでに日が真上に差し掛かっている。急いで雲を飛ばす。冷たい風で顔が痛いけど構っていられない。
その風に乗って白い鳥が飛んでいる。真っ白な羽に黒い筋が見える。大きな鶴のようだ。迷う様子もなく真っ直ぐ僕に向かって飛んでくる。
鶴は僕に近づくと雲の周りを一周してUターンしていった。更に長い首を折り曲げて、二度三度と振り向く。付いてこいと言われている気がした。
僕が行こうとしていたのと逆方向だ。少し迷ったけど、ここは付いていってみることにした。ひとりで行動していると、山ばかりで方向感覚がおかしくなりそうだ。
鶴に続いて行く内に山をひとつ越えてしまった。下方に大きな川が見える。川幅も太く、長い。上空から見ても全長がわからない。
鶴が急に向きを変え、下降を始めた。川へ向かっている。やっぱり案内してくれていたようだ。
鶴はスピードを落とすことなく、ほぼ垂直と言っていいほどの角度で、川へ飛び込んでいった。うっかり後を追いそうになって、水面に触れる前に雲を止めた。
泡立った水面を見ながら、川岸に足を着ける。風を受けなくなって寒さが和らいだ気がする。手を頬に当てるとびっくりするくらい冷えていた。
寒さが和らいだと言っても、暖かいわけではない。太陽が照りつけているのに全くと言っていいほど暖かさを感じなかった。
手を擦り合わせていると、川が流れと異なる動きを生み出した。底の方から人影が上がってくるのが見える。
「淼さま、ようこそおいでくださいました。
立派な口ひげを蓄えた紳士が川から上がってきた。水の上に立ったまま、丁寧な口調で挨拶される。
視察を始めた頃は歓迎してくれる所もあったけど、最近は無視されたり因縁をつけられたりすることが多かった。だから、こうやって柔軟な市制を見せてくれるのがちょっと嬉しい。
「遅くなり申し訳ない。恥ずかしながら迷ってしまったので、出迎えてくれて助かりました」
迷ったと正直に言うのも、どうかと思った。でもこの人には素で接した方が良い。そんな気がした。
「ここは四方を山に守られておりますので分かりにくいのです。もっと早く迎えをやるべきでした。手前の怠惰をお許しください」
お礼を言ったら何故か謝られてしまった。こういう時何て言って良いのやら。
「迎えをやる……ということは先程の鶴は貴方じゃないんですか?」
謝罪をサラッと流して気にしていないアピールをした。気づいてもらえたかは定かではない。ただ不必要に頭を下げられることはなくなった。
「えぇ、アレは手前の娘でございます。実は……」
「雫さま!!」
川から大量の飛沫が上がって白っぽい物体が飛び出てきた。スピードが速くて姿が分からない。
目で追っていたはずなのに、気づけば目の前にドンッと人型が着地していた。
「雫さま! 本物だ! 本物ですよね!?」
「ほ、本物です」
キラキラと大きな目を輝かせている。瞳は真っ黒だ。髪は高い位置で二つに結ってあり、一筋だけ赤くて、ほとんどは白くなっていった。
「こ、こら
なるほど。良く似ている。
「大丈夫ですよ。貴女がここまで案内してくれたんですか? ありがとう、助かりました」
僕がそう言うと、
「キャァァ! 喋ったぁぁぁ!」
喋ったらまずかったのかな。
今度は両手を耳に当ててぶつぶつ言っている。何を言っているのかは聞き取れない。
「……申し訳ありません、淼さま。これは手前の娘で
父親に紹介されていることに澄さんは気づいていない。どうしたものか。
「えーっと……」
「淼さまが侍従長でいらっしゃったときに
姿絵の被害者がこんなところに!
「やだやだ! 声も素敵だなんて聞いてないわぁ」
今度は独り言がしっかり聞こえてしまった。ひとまず、姿絵と別人が来た、などと失望されなくて良かったと思おう。
「娘の部屋は、壁と天井が淼さまの姿絵で埋め尽くされております。新しい姿絵が出ていないか、毎回、市まで出向くのです」
毎回ってすごい執念を感じる。七日に一度だ。ここから市までってどのくらい時間がかかるだろう。
僕は雲を飛ばしてきたからあっという間だった。けど、普通の水路を繋いでくると半日かかると言う。朝日が昇る頃に出れば、昼前には着けると思う。
「朝一番の市に間に合わせたいと言って、前の日の夜中に発つのです。でないと姿絵が売り切れるとか」
僕の姿絵を手に入れるために二日がかりだ。何故そんな努力をしているのか、全く理解できない。
「と、とりあえず二人とも元気そうで良かったです。他にも支流はあると聞きましたが健在ですか?」
事前に調べてきた情報に寄ると、あと二本支流がある。子供がいてもおかしくないけど、今手川自身が治めている可能性もある。
「家内が涸れましてから、他の
頭の中の情報と照合させる。配偶者である川は数十年前に涸れている。それは確認済みだ。でもその他の支流が涸れているのは知らなかった。情報が古かったようだ。
「そうですか。それは失礼しました。ところで川の中を見せていただいても構いませんか?」
視察は川を上から眺めるだけではない。精霊の所在を確認して、管理がしっかりされているかどうかも見なければならない。
「どうぞどうぞ。先代淼さまの際はまだ家内も健在でしたので、片付けが綺麗にされていましたが……恥ずかしながら散らかっているかもしれません」
川へ足を浸けてゆっくり体を沈める。今手川が恥ずかしそうに頭をポリポリ掻いている。
長さや太さの割には川底に着くのに時間がかからなかった。思ったよりも浅い。
ヘドロが溜まっていることもなく、枯れた水草があるわけでもなく、綺麗に保たれていた。
「綺麗ですね。しっかり管理されています」
僕がそう言うと、今手川は頭から手を下ろしてほっとした顔をした。
「本日おいでになると聞いて急いで片付けたのですが……その場凌ぎとお思いでしょう。お恥ずかしい限りです」
確かに石が不自然に転がっているのは気になる。でも流れを妨げるものではないから問題はないだろう。
川から上がると、澄さんはしゃがみこんで川を見つめていた。水面に出た瞬間に目があってしまう。
「いやぁぁぁ! 濡れてる姿も素敵です!」
「えーっと……どうも」
「喋ったあぁぁあ! 鼻血出ちゃう!」
鼻を押さえる娘を見て、父親が溜め息をついている。今手川は背に澄さんを隠すようにして僕に向き合った。
「……淼さま、ひとつお願いがあるのですが」
「何でしょう」
視察に廻ってお願いをされるのは初めてだ。高位精霊なら御上に直接嘆願できる。わざわざ王太子の視察を待つ必要はない。
何を頼まれるのか分からない。少し警戒が必要だ。僕の心の動揺を知らずに、今手川はとても真面目な顔をして髭を撫でている。
「実は先日、淼さまから視察の先触れを頂いた折、面識のない高位精霊が何名か訪ねてきました」
お願いと言う割には頼む素振りがない。今手川の話に耳を傾けて、頼まれる内容を待つ。
「私より格上の伯位がひとり、仲位が三名でした。何の用かと尋ねたところ、『一滴太子の相手をするな』と言うのです」
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