150話 嵐の前の静けさ
二人からの視線が痛い。深く考えずに発してしまった言葉は予想外に重い空気を作り出した。
「まさか……」
「この世界の精霊ではない、ね」
「す、すみません。いい加減なことを言って」
ありもしないことを言って雰囲気を悪くしてしまったみたいだ。申し訳ない。
「いや、雫の言うことはあながち間違いではないかもしれない」
何の根拠もなく発してしまった言葉だ。それなのに淼さまは真剣な眼差しで壁の一点を見つめている。僕も振り返って壁を見たけどそこに何かがあるわけではなく、淼さまがただ深い思考のために見つめているだけのようだ。
「他の理王にも聞いてみよう。雫は今日、本を一冊借りたね?それは読んだ?」
「いえ、まだです」
情報が速い。僕が先生から読むように指定された本があるのをもう知っている。でも借りた本はまだ開くこと知らしていない。一旦自室へ置いて、すぐに土の王館に向かったからだ。
「そう。私の今日の予定は粗方終わった。今日はもうこの部屋から出ないから下がって読むと良い。
「は。数日後には戻るかと」
淼さまは僕の返事を待たずに潟さんに声をかける。突然事務的な調子になり、加えて潟さんの短い返事が話を淡々と進めていく。
「そうか。なら潟が雫に付いてやるといい。貴方なら内容が分かるだろう。必要なら雫への解説を許可する」
「解説……。ですがそれは父が」
僕に教えるのは先生の役目だ。淼さまだって先生に遠慮しているのに潟さんはいいのだろうか。僕は助かるけど。
「指導は無用。絶対に私見を入れてはいけない。あくまでも本の内容を解説するだけだ」
『絶対に』と『あくまでも』を強調しながら分かったなと念を押すと、潟さんは黙って頭を下げた。その瞬間、
私見を入れないように解説って簡単そうで難しい。これは潟さんの匙加減ひとつで
潟さんが頭を上げると何故か淼さまがため息をついた。
「当面の問題はふたつだな。市で雫を騙る者の捜索。それと
淼さまが話を整理する。潟さんからも土精からも報告された市での出来事。それと水晶刀から導き出された曖昧な免の性質。市でのことは土理王さまたちが調べるそうだから、僕たちが出来るのは免のことを調べることなんだけど……
いや、待って。僕たちってちょっとおこがましかったかも。
淼さまや先生、潟さんならともかく僕はまだ知識も経験も不十分だ。戻って本を読めと言われてくるくらいだ。僕が出来ることなんてあるはずがない。どうして淼さまと僕とひとまとめに『僕たち』だなんて思ったんだろう。
知らず知らず不敬な思いを抱いていたことが信じられない。今すぐ壁に頭をぶつけたい。けど手っ取り早く気持ちを引き締めるために鼻から大きく息を吸い込んだ。肩まで動いてしまうほど深く吸ったせいで潟さんに不思議そうな顔をされてしまった。
「あ、あともうひとつ。漣も問題だな。聞いた話によるとかなり派手に逝ったそうじゃないか」
「えぇ、
腰の話ですよね? 先生自身の話じゃないですよね? 逝った、逝ったってふたりとも不穏だ。
「僕といるときは割と普通だったんですけど」
午前中の授業はいつも通り過ごしていた。ちょっと疲れた様子はあったけど本や資料も自分で抱えていたし、そんなに不調には見えなかった。
「昨日の夜と今日の早朝に焱さまに来ていただいて、鍼を施していただいたのですよ。それが効いていたのだとは思いますが、効果が切れたのでしょうね」
調子が悪かったなら言ってくれれば授業は別の日にお願いしたのになぁ。それに焱さんも水の王館に来たなら寄ってくれれば良いのに。
「下がっていいと言いながら長話をしてしまったね。戻っていいよ。何かあったら呼ぶから」
淼さまに促されて執務室を退出する。潟さんを伴って一緒に自室へ戻った。朝から忙しかったからひと息つけそうだ。
先生から借りた本はちゃんと留守番をしていた。部屋の真ん中のテーブルに置かれたままだった。座ろうと思って椅子の背に手をかけて、ちょっと思い止まった。じっくり読むようにお茶でも淹れよう。
「雫さま、お茶でしたら私が淹れますので先に始めてください」
潟さんはそう言うとそそくさと部屋の奥へ引っ込んでしまった。半分ほど引いた椅子を再び寄せて少し冷たい板に腰かけた。
表紙の紋章に指を這わせる。描いてあるのかと思ったけど刺繍してあるみたいだ。滑らかな手触りが何の素材かは分からないけど、高級な素材でできていることは言うまでもない。
重い表紙を慎重に開くと本の頁とは別に紙が一枚挟まっていた。ふたつに折られた紙を開いても何も書かれていない。不思議に思いつつも勝手に除くわけにはいかないので同じところに戻す。
もう一枚頁を捲ると整然と並んだ文字が目に飛び込んできた。パラパラと後ろの方も捲ってみると行間は狭く、当然ながら挿し絵も見当たらない。
「ぅわぁ……」
これは長い。目が疲れそうだ。何日かかることやら。
「読書はお嫌いですか?」
「いや、嫌いじゃないです。知識が増えるのは嬉しいです。ただちょっと圧倒されただけで」
潟さんが盆にお茶を乗せて戻ってきた。本を濡らさないように僕から少し離れたところにセットしていく。
「私は解説を仰せつかりましたが、その本は途中でしか読むことを許されませんでした。ですから限界がございます。あらかじめご了承ください」
潟さんが高い位置からお茶を注いでいく。体を斜めにして僕から少し距離をとる。大事な本に跳ねさせないようにという配慮だろうけど器用だ。
「先生が読んじゃダメだって言ったんですか?」
僕も念のため本を体にくっつけて濡れないように腕で覆った。角に二の腕が当たって少し痛い。
「いいえ、父は何も。ですが
字が認識できない?
そういえば昔、先生から理術を習い始めたばかりの頃、先の勉強をしようとして失敗したことがあった。一文字ずつ追うことはできるのに少し進むと分からなくなる。写そうとしても同じことが起きた。
あのときは淼さまに頁を指示してもらってようやく字を理解できたんだった。淼さまも詳しくは教えられないって言ってたけどそういうことだったんだ。
「経験あります。でも潟さんがこの本を読めなかったなら僕だって途中で分からなくなりますよね?」
もしかしたら、途中でしか読んだことがないから解説を渋っていたのかもしれない。
「それは……私からは何とも」
潟さんはいつものニコニコした顔ではなく、困ったように笑っていた。
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