97話 vs汞

マリさん!?」

 

 鋺さんは脇腹を押さえてうずくまっている。駆け寄ろうとすると、玻璃ガラスに向かったはずの煙が戻ってきた。

 

「先ほどの硝酸の礼だ。王水おうすいはお好みであろう?」 

 

 煙は吸い込まれるように小魚に吸収されていく。金魚ほどだった小魚はどんどん膨らんで、ふぐのようになり、最後にはパンッと破裂してしまった。

 

 思わぬ破裂音に驚いて両腕で顔を防御する。恐る恐る腕を外すと鋺さんの前に女性がひとり立っていた。

 

 こいつが……メルキュール

 

 一瞬、アルジャンさんかと思った。双子かと見間違うほどそっくりだった。顔だけなら鑫さまと鐐さんよりも似ている。

 

 けれど肩口までの髪の長さが別人だと教えてくれた。鐐さんは鑫さまと同じように巻き髪を高い位置で結い上げている。一方、メルキュールは緩く波のかかった髪を揺らしながら、不機嫌そうに鼻を鳴らしている。

 

「動くなよ、水精の小僧ども。下手な真似をすれば金亡者の首をはね、そなたらにも王水をかける」

王水おうすい?」

 

 硝酸とか王水とか、何だか分からない言葉がたくさん出て来て頭がパンクしそうだ。それでも汞を睨み返していると鼻で笑われた。

 

「はっ! 浅学の叔位カールが。王水も知らぬとは」

 

 僕が叔位なのは事実だから反論のしようがない。なんなら少し前は季位ディルだった。

 

「王水とは濃塩酸と濃硫酸の混合液よ。ほとんどの金属の大好物であるわ」

 

 丁寧に教えてくれることにお礼を言うべきだろうか。大好物って皮肉だろうな。鋺さんが危機的状況なのは明らかだ。

 

 視界の端の方で滾さんの火燃絨毯が小さくなっていくのが見えたけど、倒れた金精が起きる気配はなかった。

 

「もうひとつ教えてやろうか。過冷却水は僅かな振動で凍る。調整を誤ったな」

 

 そんな、うまくいったと思ったのに……。

 

 僕の心を見越したみたいに火燃絨毯が悲しげに消失した。凍ってしまった大水球ならぬ大氷球がその跡地をゆっくり転がっていく。

 

「何も知らぬまま乗り込んでくるとは愚か者が」

 

 ヒューヒューと聞こえるのは鋺さんの息が甲冑から漏れている音だろうか。汞は嘲笑うように整った唇を醜く引き上げた。

 

「そなたもだ。金亡者の名が聞いてあきれるわ!!」


 汞が鋺さんの頭を蹴った。鋺さんの冑は凹み、鈍い金属音が響き渡る。鋺さんは斧で抵抗したようだけど汞の動きが早いのに対し、負傷した鋺さんの動きが鈍い。

 

「もっと地位や家柄にこだわりを持て!!」

 

 汞は鋺さんを殴り、蹴り、突飛ばしを繰り返している。遂に鋺さんの冑が外れた。ぼんやりした金髪が露になる。

 

「混合精の理王など認めん!」

 

 隣でたぎるさんが拳を強く握ったのが分かった。悔しそうだ。僕も悔しい。目の前で鋺さんが痛め付けられていて、何も出来ない。

 

 それにくんさまもだ。玻璃ガラスの向こうではまだ鑫さまが鐐さんと戦っている。でも助けに行くどころか、動くことすら出来ない。

 

 悔しい。

 

 大した抵抗もできずに一方的に殴られる鋺さん。何も出来ずにただそれを見ている僕たち。鋺さんが受ける衝撃の音も大氷球が転がる音も耳障りだ。

 

 ……転がる音?

 

 火燃絨毯の跡を転がっていたはずの大氷球はいつの間にか玻璃ガラスの近くまで転がっていた。ここから玻璃まで僕が全力で走っても二、三十秒はかかると思う。

 

 大氷球がそんなに早く移動するほど床が傾いているとは思えない。

 

「早く金理王を始末す……」

コバルト!!」

 

 メルキュールの言葉を遮って鋺さんが甲高い声で叫ぶ。調子よく鋺さんに暴力を振るっていた汞は一瞬怯んだように見えた。

  

「とりゃーーー!!!!」

 

 大氷球が玻璃ガラスにぶつかって、粉々にくだけ散る。透明な玻璃は真っ白になって鑫さまの姿が見えなくなった。

 

 汞が驚いたように振り向く。その隙を逃さず鋺さんの斧が汞の体を切り裂いた。

 

「ぐっ……」


 汞の体が大きく傾く。鋺さんが飛び退いて僕らを振り向く。

 

「鑫さまを! 鑫さまをお願いします!」

 

 鋺さんが言い終える前に滾さんが駆け出していた。大きな体に似合わずって言ったら失礼だけど足が速い。僕より速そうなので、鑫さまは滾さんに任せて鋺さんに近づく。

 

「鋺さん、大丈夫ですか?」

 

 鋺さんは脇腹を押さえていた手を外した。固まってはいたけど、どろどろに溶けた跡がある。

 

「ご心配なく」

「あれは……何をしたんですか?」

 

 玻璃ガラスを指差して鋺さんに問うと、鋺さんは冑を拾いながらヒューと息を吐いた。

 

「あれはコバルトが氷を転がして突進したのです」

 

 転がして……。西瓜スイカくらいの大きさがあったはず。あんな小さな虫にそんなに大きいものを転がせる力があるなんて信じられない。

 

金蚊カナブンって力持ちなんですね」

「あれは金蚊ではありません。黄金虫の仲間で蜣螂スカラベです。丸いものを転がすのを得意としています」 

 

 ごめんなさい。ずっと金蚊だと思ってました。本人に言ってない……よね。

 

「くそ、舐めた真似しおって……」

 

 汞が鋭利な腕を床に突き刺し立ち上がる。胴体は辛うじて繋がっているようだ。それでもまだまだ反撃してきそうで怖い。

 

「結ぶ金 命じる者は 金太子 繋ぎを断ちて 面を崩さん『金属格子破壊ブレイクダウン』」

 

 汞の後ろに微かな影が射した。それと同時に聞き覚えのある声がしてゴトリと音がする。何が起こったのか理解できないでキョロキョロしていると、汞の首が床に落ちていた。

 

「ひっ……!」 

「鑫さま!」

 

 悲鳴をあげそうになった。鋺さんが鑫さまを呼ぶ声でハッとして飲み込む。情けない声をあげるところだった。汞の体の後ろで鑫さまが槍を構えて立っていた。遅れて滾さんも戻ってくる。


「二人とも無事!?」

「はっ!」

「だ、大丈夫です」

 

 鑫さまは結い上げていた髪がほどけて少しやつれているように見えた。でも見た感じ大きな怪我はなさそうだ。

 

「鑫さまは大丈夫ですか?」

「えぇ、大丈夫よ。でもちょっと取り込み中だからお話は後でね」

 

 鑫さまはにっこりと微笑みながら僕と目を合わせる。その目を逸らさないまま槍を後ろに回した。ガキンッという金属音が耳をつく。

 

 視線を上げると鑫さまの後ろで鐐さんが槍を振り下ろしていた。

  

「アル! いい加減にしなさい!!」

「姉さまこそ、観念してください! 私と一緒に金精を司りましょう!」

 

 槍と槍がぶつかり合って文字通り火花が散っている。鐐さんはまだ水銀が抜けていないから、合金アマルガムのままだ。今は倒れている金精みたいに、高温で熱してから冷やさないと水銀は抜けない。

 

 鋺さんを見ると黙って頷いていた。やれっていう意味だろう。滾さんと顔を見合わせて頷く。滾さんが詠唱を始めた。

 

「させるか」

 

 汞の首が喋った。首も体も液体になって流れていく。首は倒れた金精に、体の方は鐐さんへ向かっている。

 

 まずい!


「『過冷却アンダークーリング』!」

 

 外してしまった。事も無げにかわされてしまい、水銀は再び金精の体に入り込んでいく。また合金アマルガムだ。先程よりも数は少ない。それでも十人くらいだろうか。

 

 起き上がった金精は迷うことなく、雄叫びをあげながら僕たち目掛けて突進してきた。 

 

「『火燃絨毯フレイムラグ!』」

 

 滾さんの詠唱が間に合った。合金アマルガムの金精は再び倒れる。間髪いれず過冷却で気体の水銀を固体化する。今度は失敗しない。振動で固まると言うなら、なるべく慎重に動かすことだ。

 

アルジャンさま!」

 

 少し離れたところで鋺さんが斧を振り下ろしていた。汞を攻撃したかったみたいだけど、汞はすでに鐐さんに入り込んでしまっていた。

 

「ギルさん! もう一度……!」

「あ、暑い」

 

 滾さんは肩で息をしていた。顔も真っ赤で汗が滴っている。滾さんは温泉だ。連続で火の理術を使って、今頃温泉が沸騰しているかもしれない。


「ハハッ! アルジャンは妾が貰った。オール、貴様も飲み込んでやりたがったが仕方がない。鐐を旗頭に金理王を倒し、鐐を王太子に据えてやる!!」

 

 アルジャンさんが完全に水銀に飲み込まれてしまった。非常にやりづらい。出会ったばかりの僕でさえ鐐さんに攻撃しにくいんだから、鋺さんや鑫さまなんて尚更だろう。

 

「どうした? 妾が相手では不服か?」

 

 鐐さんの顔で、鐐さんの声で、でも話し方と笑い方だけが汞だ。気味が悪い。汞が挑発するように喉を見せる。鑫さまも鋺さんも槍や斧を構えたまま動けないでいる。

 

「ん? 攻撃して来たらどうだ?」 

「じゃあ、遠慮なく。炎の気 命じる者は 火の太子 灰も残さず 骨まで燃やせ『爆炎焼』」

 

 火柱が上がり火の粉が舞っている。懐かしい声に振り向くと見慣れた赤い髪が熱気に揺れていた。

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