93話 水銀と金蚊

 冷や汗が出て心臓がうるさいくらいに鳴っている。けど鋭利な見た目に反して刺さってはいなかった。息をする間もなくドリルは形を崩し、紐状になって僕の左腕に絡み付いた。

 

「雫さま! 水銀それから離れて!!」

 

 冷たさに息を飲む。袖から手首に入り込まれた。鋺さんが壁の向こうで叫んでいる。水銀の毒が回って来る前に引き離さないと!

 

 腕を振って落とそうとしてもびくともしない。腕が疲れるだけだ。振りすぎて怠くなった左腕をぶらりと下ろす。勢いよく下ろしたせいで、肘が固いものにぶつかった。

 

 その瞬間、甲高い音が反響する。凄まじい音量でそれが悲鳴だと分かるのに少し時間を要した。

 

 耐えられなくて耳を覆う。すると左腕に巻き付いていた水銀が離れていくのがよく見えた。小刻みに震えながら地面にボトリ、ボトリと一滴ずつ落ちていく。


「うぅーーっ」

 

 左袖から金蚊カナブンが顔を覗かせた。水銀が腕から逃げようとしているのを捕まえて、ガジガジと噛みついているように見える。

 

 っていうかもう一匹いたんだ。結構月代で転んだり、沸ちゃんにぶつかったりしたけどよく無事だったな。

 

 水銀が完全に手から離れても金蚊は宙を追いかけて水銀を齧っていた。結構執念深い。

 

「雫さま! こちらへ!!」

 

 いつの間にか壁は消えていて鋺さんの姿がはっきり見える。金蚊と水銀も気にはなったけどひとまず鋺さんに駆け寄った。

 

 鋺さんと合流して今度は沸ちゃんの所へ向かう。沸ちゃんは既に平板に指をかけていた。

 

「雫、大丈夫だった?」

「大丈夫。沸ちゃん、あの水銀にマグマかけて!」

 

 色々説明しなければならないけど、沸ちゃんは何も聞かずに平板をひっくり返してくれた。正方形に区切られた穴からボコボコという音が聞こえる。

 

「何だか分からないけど、とりあえず分かったわ!」

 

 沸ちゃんが大きく腕を振るとマグマが大蛇のように頭を出した。まるでリヴァイアサンのようだ。体は正方形の穴に繋がったまま、頭だけが一直線に水銀へと向かう。

 

コバルト! 避けなさい!!」

 

 鋺さんの高い声が頭の上で響く。それにつられて鋺さんを見上げると、頭上の噴火口から差し込む光で冑が光を反射していた。

 

 眩しさに目を閉じると、再び甲高い音が耳に刺さる。これは恐らく水銀の悲鳴だ。マグマに飲み込まれた水銀が絞り出した叫び声だろう。

 

円柱壁コラム

 

 水銀を飲み込んだマグマはその場で固まって岩になっていく。溶岩から抜ける蒸気を逃さないように鋺さんが金筒で覆った。

 

「気化した水銀は有毒です。決して吸ってはなりません」

 

 鋺さんがそう言い終えると頬にチクッとした感触があった。手を添えると金蚊カナブンが指にくっついていた。

 

「ただいまー」

「お、おかえり?」

 

 緊張感のある場面に相応しくない間の抜けた台詞だ。返事をしてしまった。金蚊は音を立てて羽を鳴らしている。飛び立つわけではないようだけど、どこか嬉しそうだ。

 

「蒸発する過程で閉じ込めました。このまま保てれば大丈夫でしょう」

「うまくいきましたね」 

 

 液体でも気体でも逃げやすい。けど状態変化の瞬間は動けない。だから高温のマグマで気化させて閉じ込めてしまうっていう作戦だった。危ないところもあったけど何とか無事だ。

 

「ちょっと、そろそろあたしにも説明してくれる?」

 

 沸ちゃんは伸びて繋がったままだったマグマを切り離して平板を戻している。貴燈山ひとのうちを荒らしてしまった。ちゃんと説明しなきゃ。

 

「ところで雫さま、先ほど水銀に触れられませんでしたか?」

「え、あ、はい。手首に直接触りました」

 

 でも何ともないから不思議だ。短時間で金蚊カナブンが助けてくれたのが良かったんだろうか。

 

「ねぇ、あたしの話聞いてる?」

「ふむ……」 

「これ好きー」

 

 僕の指をぎゅっと掴んでいた金蚊が離れ、腰から出ている柄に止まった。淼さまに借りた水晶クリスタル刀だ。

 

「ちょっとー?」 

「なるほど、水理皇上の水晶刀。浄化作用がございますから水銀も無毒化できます。流石です」

 

 そうか。さっき水銀を振り落とそうとして肘が柄にぶつかった。きっとあの時だ、水銀が離れたのは。

 

 前にも貴燈ここたぎるさんの温泉を浄化してくれた。淼さま……ここにいないのに僕を守ってくれている。申し訳ないやら、嬉しいやら……。

 

 淼さま、今頃何してるのかな。

 早く帰りたいなぁ。

 

「こらーー!!!」

 

 突然の大声にハッとする。しまった、沸ちゃんのことを忘れていた。沸ちゃんは前髪に隠れていない片目を大きく見開いて怒っている。

 

「ちゃんと説明してよ!」

「ご、ごめん。沸ちゃん、これは」

「雫はあとで! そこの銀ピカ!!」

 

 沸ちゃんは自分よりも頭二つ分くらい大きい鋺さんを指差す。精霊ひとのことを指差してはいけないと言える雰囲気じゃなかった。

 

 鋺さんは冑の上から頭を掻いている。掻けていないし、骨が痒いはずがない。

 

「何なのよ、あれ! あんな金属で覆ったら地下に片付けられないじゃない!」

 

 今度は溶岩を指差しながら大声で叫ぶ。そんなに大声出さなくても聞こえてる……なんて言えない。

 

「叔父さまがいないからマグマは今ある分しかないのっ! それであたしと滾の温泉を保ってるんだからちゃんと返してよ!」

 

 そうだったのか。メルトさんが火山の動きを休んでいるからマグマも新しく生まれない。それは……沸ちゃんと滾さんに悪いことをしてしまった。

 

 鋺さんは何も言わない。首の角度を見てもどこを見ているのか分からない。ツーンという効果音が聞こえてきそうだ。

 

 聞こえてない訳じゃないだろうから……もしかして。


「あの、マリさん」

「はい、雫さま」

 

 やっぱり。理王関係者以外は相手にしないっていう鋺さんの性質がここで発揮された。僕のことを丁寧に扱ってくれるからすっかり忘れていた。 

 

「あの、沸ちゃんは、その、元火太子候補者の姪っ子さんなんですけど相手してもらえませんか?」

「お戯れを」

  

 ギリギリ理王に通じるかと思ったけどちょっと理王に遠かった。鋺さんは沸ちゃんを見ようともしない。


「沸ちゃん、ごめんね。こっちの用が終わったらちゃんと元に戻すから。大事な話があるからちょっと聞いて」 

「何なのよ、もう。いきなり来て……」

 

 沸ちゃんはもう投げやりだ。でも僕の話を聞く体勢になってくれた。何だか申し訳ないけど、もうひとつ頼まなきゃならないことがある。

 

 僕は月代での出来事を話した。煬さんに取りついていた銅が月代の金精だったこと。水銀が金精の皆を合金アマルガムにしてしまったこと。鑫さまが捕まっていること。

 

 少し前に焱さんと鑫さまが貴燈山を訪れているから、沸ちゃんにも話が通じやすかった。

 

「沸ちゃん、水銀を引き離すために火の力と水の力が必要なんだ。力を貸して!」

 

 沸くちゃんは目をぱちくりさせている。今日だけで沸ちゃんのこの表情を何回見たか分からない。

 

「沸ちゃんと滾さんは初級理術なら火と水両方使えるんだよね? 一緒に来て!」

「それは……雫がそういうならそうしたいけどマグマが……」

 

 確かにマグマに管理を代行って言ってた。貴燈から離れることは難しいのだろうか。沸ちゃんは口の下へ手を持っていって少し考え込んだ。

 

 数秒後、少し俯き加減だったのに急に上の方を向く。首を痛めそうな勢いだ。

 

「ギル、ひとりで留守番できる?」

「俺、行く」

 

 大きな岩が落ちてきたのかと思ったら、まさかの滾さんだった。どこから飛び下りてきたのか分からないけど地震かと思った。細かい石が岩壁から転がり落ちてくる。

 

「姉さん、残って」

 

 滾さんいつからいたんだろう。話の内容は通じてるみたいだ。沸ちゃんは滾さんと僕の顔を交互に見比べている。


「た、滾さんが来てくれるんですか?」

「ギル、で良い」

 

 ぶっきらぼうな言い方だけど顔が真っ赤だ。前に恥ずかしがり屋だって言ってたから、きっと照れてるに違いない。

 

「ホントはあたしが雫と一緒に行きたいけどギルの方が戦力にはなるわね」

 

 ここは譲るわと言いながら沸ちゃんは肩をすくめた。

 

「雫にお礼する」

 

 お礼? 僕なんかしたっけ?


「ああ、ギルはね、雫が温泉を無毒化してくれたこと感謝してるのよ」 

 

 温泉を無毒化したのは僕じゃなくて淼さまの水晶クリスタル刀だ。決して僕の力じゃない。そう言おうとしたけど冑の軋む音に遮られる。

 

「雫さま、お話はもうよろしいですか?」

 

 鋺さんが僕に声をかける。滾さんの存在もキレイに無視しているようだ。でも滾さんは初対面の鋺さんに顔を赤くしたり青くしたり……それどころじゃないみたいだ。

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