52話 涙湧泉
「
小粒の塊を焱さんに渡して、水のない川から上がる。ジャリジャリしていて足場が不安定だ。
「上流の鉱山も気にはなるけどな。まずは南へ向かうか」
方向が全く違う。鉱山と反対とまではいかないけど。
「金精の方は戻った時に伝えるつもりだったが、漕に伝えたからそっちは大丈夫だろ。俺たちは予定通り火精の様子を探る」
焱さんが服の中に手を入れて、何だかごそごそしている。
「南には何があるの?」
「
焱さんがごそごそをやめて紙とペンを取り出した。キョロキョロと辺りを見渡し、川原で大きめの平らな石を拾ってくる。その上に紙を置いて、何か書き出した。
黙ってた方がいいかな。
細かい字でしばらく何か書いていた焱さんは、最後に指二本を紙に押し付けた。ジリジリという音と共に煙が出て、指を離したときには、模様が焼き上がっていた。多分焱さんの紋章だ。
紙を細く折って口に咥えると、今度は細長い炎を出した。ちょっとビックリして、一歩下がってしまう。
焱さんが炎を握ると火は消えて一本の矢になった。口から紙を放して器用に矢に結んでいく。
「
勿論待ってるつもりだった。焱さんの手際を見ていると退屈しないし、初めて見る光景に興味津々だ。
紙を結び終えた焱さんが背中の長物を外した。覆っていた布を外すと筒が現れ、更に筒を開けると中から弦のない弓が出てきた。
焱さんが弓の端から端まで撫でると、まるで一瞬で弦が張られたようにしなっている。どういう仕組みなのか分からない。
「火の太子から、
焱さんは矢尻を口許に当ててそう呟くと、弓につがえて矢を真上に飛ばした。しばらく上昇していた矢はぐるりと向きを変え、南へ向けて飛んでいった。まるで意思があるかのように。
「さて、案内してくれよ」
「え? 貴燈山なんて行ったことないよ?」
「ちげぇよ」
焱さんがニヤニヤしながら、弓を片付けている。筒を布に包んで、来たときと同じように背負った。
「一ヶ月後にも来るだろうけどよ……見せてくれよ、涙湧泉」
いけない、忘れてた!
土手の上から見下ろすと、澄んだ空が映り込み、まるで鏡が落ちているようだ。僅かに水面が揺れているが、遠目には気にならない。
「ほぉー、あれだな!」
涙湧泉を見て来るように母上に言われたこと……焱さんに言われるまで全く思い出さなかった。長いこと泉がなかったから、管理するっていう考えがあまりない。自分の母体を見ていると何か変な気持ちがする。
「どんな感じの泉なんだ?」
「どんな感じって、普通の泉だよ?」
「普通が良く分からねぇんだよな。まず泉と池の違いから分からねぇ」
今日は焱さんに説明することが多い。転ばないように変な体勢になりながら、急な斜面を下りる。
「んーと、泉は湧き出してるものが多いけど、池は作ったものがほとんどだよ」
「あぁ、だから王館にあるのは池なわけか……」
先に斜面を下り終えた焱さんが手を貸してくれたので、大人しく掴まる。僕の本体ってこんなに行きにくいところにあったんだっけ?
「足元気を付けろよ。この辺りは昇格した
なんとか斜面を下りた。何度か手をついてしまったので手をパンパンと軽く叩く。足の高い草に囲まれて泉が見えなくなってしまった。
母上が昇格して生まれた斜面か。母上にとっては大したことないだろうけど、僕にとっては大問題だ。これから毎月通うとなると、この行き来はきつい。
「ねぇ、焱さん。母上のこと、前は『華龍どの』って呼んでたのに、最近は『清どの』って呼ぶよね。いつの間に仲良くなったの?」
意外と言えば意外だ。母上と焱さんは全く別のタイプだと思う。当たり前だけど属性も違う。
「仲良くっつーか……同格になったからっつーか。同格つっても俺は王太子だからホントは」
「あ、そこ
「おい、聞けよ」
二人で草を掻き分けて進む。方向が分からないけど、僕はどっちへ進めば良いか分かったし、焱さんは背が高いから見えてるみたいだ。僕が案内しなくてもちゃんとどっちに泉があるか分かっていた。
「あ」
急に丈の長い草がなくなって、視界が明るくなった。遮るものがなくなった分、感じる風も強くなった気がする。
「おー、綺麗だな!」
目の前には広がる青い空に足を止めてしまった。泉に空が映って表面では雲が泳いでいた。近くで見ているせいか、土手の上から見たときよりもずっと空が近く感じた。
空を捕らえているのは紛れもなく、僕の本体……涙湧泉だ。存在すら怪しかったこの十年、よくここまで回復したものだと感心してしまう。
一歩二歩と近づいて覗き込む。澄んだ水がコンコンと湧いているらしく、映り込んだ僕の顔が僅かに震えていた。
「行ってきて良いぞ」
「え?」
焱さんが僕の荷物を取り上げた。僕の体も少し引っ張られたけど、そんな僕にはお構いなしで鞄を引き抜かれた。
「行ってこいよ、ここで待ってるから」
「あ、でも一応見たし」
久しぶりすぎてちょっとだけ恐いっていうか、照れ臭いっていうか……。焱さんに見られるのが恥ずかしいような気もするし、はしゃいじゃうかもしれないし。もう一度泉を覗き込んだ瞬間、
「ほらっ! 行ってこいっ!」
「ぅわ!」
焱さんに蹴られた。
ドブンッという音が耳に飛び込んできたので、泉に落ちたんだと分かった。反射的につぶってしまった目を恐る恐る開ける。二、三度瞬いて、上を見上げると光がゆらゆら揺れていた。
全身が歓迎されている。
体は底まで沈まずに優しく受け止められた。身に泉が沁み渡って僕と一体となるような……そんな感じだ。でも本来はそうなのかもしれない。泉も人型も僕自身であることに変わりはない。切り離されていた十年が異常だっただけだ。
心地よい……先生の言ってたことが今なら出来る気がする。
本体の水、泉の理力。これを使えれば傷を早く治すことも、俊敏に動くことも出来る。先生はそう言ってた。
泉へ注ぎ込む水の流れを感じながら足に理力を溜めるイメージをする。勢いよく水中から飛び出す噴水のように。
集中してタイミングを見計らい、水中を蹴った。そこから泉とは思えない激流が生まれ、僕の体が水中から飛び出した。バランスを保ちながら、水面に着水すると後ろから声をかけられた。
「おう、お帰り」
振り向くと焱さんがニヤニヤしている。焱さんは敷物を広げて寛いでいた。ごつごつした石を避けて、なるべく草が多いところを選んでいる。
「その様子だと掴めたみたいだな」
「何を?」
焱さんはお菓子を口に入れたまま喋っているのでボロボロこぼれている。お行儀が悪い。
「自分の理力。本体に触れたのを切欠に、本来持ってる理力を扱えるようになったわけだ」
パンパンと手についたお菓子のカスを払いつつ、僕の足下を指差した。指先を追って、改めて自分の状況を確認する。
僕は今水面に立っている。それを認識した瞬間、再び泉に落ちた。
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