30話 反省と知らせ

 王館に戻ってきてまもなく一ヶ月が経とうとしていた。

 

 赤い短髪の『誰か』はまだお許しがないみたいで、あれから一度も会えていない。

 

 僕も少し反省するようにとびょうさまから言われた。火精のことで事前に注意を受けていたのに、もっと周囲を警戒する必要があった、と。

 

 確かに、理術が使えるようになったから少し油断していたのかもしれない。実際、火精に襲われているときも、口さえ動かせれば理術で対抗できると考えていた。


 抵抗できたとしても自分の本体が危険だということを第一に考えるべきだったのだ。火の攻撃は危険だと分かっているつもりだった。でも市のような混雑しているところは避けるのが得策だった。今ならそう思う。


 まだまだ理術は勉強中だし、僕の体だって少ないことには変わりはない。びょうさまにさとされるように言われて、つつしんで行動しようと心に誓った。

 

 僕は『ただ一滴の雫』。

 

 理術がちょっと使えるようになったからと言って調子に乗らないように、自分を戒めなければ。また僕のせいで一緒にいる『誰か』が罰を受けるかもしれない。僕のせいで誰かがとばっちりを受けるのはもう嫌だ。

 

 決意も新たに僕は廊下に向かって叫ぶ。

 

「『水拭清掃アクアワイプ』」

 

 一瞬波が現れ、床を撫でて消える。床がピカピカになった。アクアワイプは先生が最初に見せてくれた理術だ。

 

 先生はまだ帰ってこない。長くて二ヶ月と言ってたから、もうじき帰ってくると思うんだけど。先生が帰ってこないと理術の勉強が進まないのだ。


 もちろん今までの理術の練習をすればいいのだけど、それよりもせっかく学んだ理術を活かしてみようと思った。

 

 ということで、びょうさまの許可をもらって、家事をするという数ヵ月前の生活に戻った。違うのは、掃除にも洗濯にも料理にも理術を使えるようになったことだ。

 

 おかけで時間が半分くらいに短縮できた。余った時間でデザートまで作れるようになってしまった。

 

 作り終えた夕食を持ってびょうさまの執務室へやって来た。

 

「淼さま、失礼します」


 何だか懐かしい気がする。十年間、毎日こうしていたのに、たった数ヶ月違う生活をしていただけで懐かしくなるものだろうか。

 

 入室の許可をもらって扉を開ける。びょうさまは予想通り執務席にかけているけど、数ヶ月前と様子が違う。格段に書類が低い。お仕事が落ち着いたのだろうか。

 

「あぁ、ありがとう」

 

 びょうさまはすぐに席を立って移動してきた。料理を並べるのが間に合わなくて、ちょっと慌てる。

 

「雫、いい知らせがあるよ」

「何でしょう」

 

 淼さまは僕が支度を終えるのを待って口を開いた。

 

「師匠が帰ってくるそうだ」

「本当ですか!?」

「あぁ、昨夜連絡があった。時間がかかったけど、二ヶ月なら許容範囲だ。これ以上遅いとサボ……いや、何かあったのかと」

 

 びょうさまが不思議な笑みを浮かべている。どういう感情なのかちょっと読み取れない。席に座るよう促されて真向かいに着いた。

 

「まぁ、一両日以内には帰ってくるよ。そうすれば、また理術の勉強を再開できるよ」

「はい、頑張ります! あっ」

 

 汁物スープの椀に袖を引っ掻けた。椀が傾く。

 

「……『氷結フリーズ』!」

「お見事。それから?」


 床に落ちた椀を拾い上げる。中には凍った汁物が張り付いてカチカチだ。

 

「……『液化』?」


 汁物が液状に戻った。でも……

 

「……冷たい」

「だろうね。液化は名前の通り液状にするだけだから、温度は上がらない」

「じゃあ……えーっと」

「正しくは……いや……止めよう。これ以上は教えられない。ルール違反になる」

 

 びょうさまは切り分けていた魚の身を一口含むと、ふと扉に目を向けた。冷たい椀を持ったまま僕もつられて見てしまう。


 誰かいるのだろうか? もしかして、もしかして赤い髪の……


「入れ」

 

 びょうさまが短く告げても扉が開く様子はない。あれ? と想っていると手の中の椀が震えだした。

 

「え、ななな」

こう、そこは止めてお」 

「溝さん!?」 

「あ、間に合わなかった」


 僕の椀から魚が飛び出した。でも前に溝さんに会ったときと少し違う。透明じゃない。薄く茶色に染まり、所々に溶いた卵が見える。

 

「溝には何度か会ってるね?」

「あ、は、はい」

 

 溝さんが椀を持つ僕の手に軽く触れた後、宙を泳いで顔にすり寄ってきた。昆布出汁の匂いがする。

 

「水理王の水先人みずさきにんだ。まぁ、私にとっては……実際は使い走りだけどね」


 で、何のようだ? とびょうさまは続ける。

 溝さんは僕の顔から離れて、淼さまの近くに泳いでいった。

 

 淼さまの右耳から首の後ろを回って左耳へ泳ぐ姿をぼーっと眺める。

 

「そうか、思ったより早いな」

 

 僕が首を突っ込んでいい話ではないだろうから黙っていた。からの椀を置こうとすると、またびょうさまから声をかけられた。

 

「雫、お客だよ」

「あ、はい、かしこまりました。では」

「いや、まだいい」

 

 席を立とうとして半分腰を浮かせたけれど、予想外の答えが返ってきたので変な体勢で止まってしまった。


こう、ご苦労だった。戻っていい。引き続き廻れ」


 溝さんが再び僕の近くへ寄ってきた。でも今度は僕には触れなかった。からの椀へ入ると、魚の姿をとどめずに元の液体に戻ってしまった。

 

「溝さん?」

「もうそこにはいないよ、次の仕事に行ってしまったからね」


 この汁物スープ、飲めるんだろうか。浮かせた腰を椅子に戻す。椀をじっと見ていると淼さまがそれに気づいた。


「……飲んでも平気だけど温めてからの方がいいかもね」

 

 淼さまがそう言いながら僕の椀を一瞬見つめていると、湯気が出てきた。流石だ。


「もう少し楽しみたかったけど、早く食べてしまおう」

「分かりました。終わったら謁見用のお着替えをお持ちしますね」

「いや、必要ない」

 

 温かい椀にスプーンを入れようかどうしようか悩んでいると、また予想外の答えが返ってきた。今日はそういう日なのだろうか。

 

「謁見ではないし、まして私の客じゃない」

「え、でもさっき……」

「私ではなく……雫へのお客だよ」

「僕? ですか?」

 

 淼さまは口元を布で拭って、茶器に手を伸ばした。

 

「あぁ、高位精霊ではないから謁見は出来ない。いや、出来なくはないけど……手続きが面倒でね」

 

 そこまで言うと、今度は僕が作ったスフレを幸せそうに召し上がっている。余った時間で作ったものだが、心のレシピが増えた。

 

「今回は雫の面会に同席という形で会わせてもらうよ、それなら可能だから。応接間ではダメか……離れの座敷に通そう。片付けを終えたら、着替えておいで」

「分かりました」

「前掛け取るのを忘れないように」


 僕ならちょっとやりそうだ。恥ずかしい。

 

「……考えたな」

「?」 

 

 びょうさまの呟きははっきり聞こえたが、僕は恥ずかしさで返事をすることが出来なかった。

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