北東の化物とサクリフィキウム令嬢

あやぺん

第1話

 


 我が国には化物が住んでいる——……。



 シミひとつない純白のテーブルクロス。実り豊かな秋に相応しい、果物柄の銀食器。薔薇彫刻がされている木製額が包む、二百年前に活躍した作家の貴重な宗教画。乱反射するシャンデリアが、聖印柄の壁紙が貼られた部屋を煌めかせている。磨き上げられたガラスの向こう、大きな窓の外に目線を向けると、手入れが行き届いた庭園。花壇には、海色の花が咲き誇る。黄金太陽の光を独占しているように、キラキラ光る花びら。


 訪問された屋敷の食堂で、静かに紅茶を飲む帝弟陛下は絵になる。アグヌスは食堂の扉脇の壁に立ち、時折帝弟陛下を盗み見た。直視など、下位事務官の自分には許されない。しかし、つい見てしまう。田舎貴族の三男坊のなので、我慢しようにも、豪華な調度品や楽園のような庭園に意識が向く。一番は帝弟という雲の上の方。気になって仕方ない。つい、帝帝陛下を盗み見みしてしまう。その度に、扉を挟んだ向こう側に立つ、同じく本日の側仕え役——ラザン上位政務官と自己紹介された——がアグネスを咎めるように睨んだ。


 秋の人事編成にて、地方領地の文書管理官から、何故か城勤めの下位事務官に任命された。もう一週間経つ。アグヌスは、今日生まれて初めて帝族を至近距離で見た。今朝、帝王側近から「帝弟タルウィ陛下が散歩に行く際の側仕え役」と賜った。城内の廊下を歩いていたら、たまたま声を掛けられた。あまりに突然の名誉。ずっと胸が熱い。


 背筋を伸ばし、品良くティーカップに口をつける帝弟陛下。同年代の帝弟陛下が纏う雰囲気はかなり大人びていて、熟年貴族のよう。軽く俯いて紅茶を飲んでいるのが、憂いを帯びていて、色気を感じさせる。しかし、帝王陛下はどう見ても痩せ過ぎ。病がちだというが、食事摂取や栄養管理に問題があるのかもしれない。土気色気味の青白い肌がそう物語っている。うなじに浮かぶ骨。ティーカップを持つ優雅な手から伸びる、節が目立つ細い指。落ち窪んだ瞼などもそう。

 だが、落ち葉色の髪は艶やかで、同じ色の瞳に宿る生き生きとした力強い光。未来が明るい若者だとも伝わってくる。


「そこの、若い方のお前」


 帝弟陛下の静かな低い声に、アグヌスの背筋に冷や汗が伝った。礼儀知らずのような態度が、帝弟陛下を怒らせた。


「は、はい。た、大変失礼致しました。私のような身分の者が陛下をジロジロと……。あ、あ、あまりにも……神聖な御身に見惚れて……か、感心し……」


 慌てて右手の拳を胸に当て、軽く頭を下げ、視線をつま先に固定する。敬意を示す動作。偽りないと伝わるだろうか。


「へえ。そういう態度は嫌いじゃない。よし、質問だアニュス」


 発音が少し違うが、帝弟陛下に名を覚えられていることに感極まって、アグヌスはつい顔を上げていた。帝弟陛下と目が合った瞬間、あまりの無礼な自身の行動に慄く。アグヌスは急いで、立礼のポーズを取り、目線も外した。


「こっちを見ろ。目上の者と話す時は目を見て話せ」


 アグヌスの知識の中ではそんな常識はないが、帝都か城では、もしくは帝族に対しては目を見て話すのが至極当然なのかもしれない。ならば、ずっと非礼だったことになる。田舎育ちだからとは、言い訳出来ない。アグヌスはそろそろと顔を上げた。

 薄い唇を三日月型にした帝弟陛下が、目も愉快そうに細めている。コツコツ、コツコツ。帝弟陛下の細くて長い指が、テーブルを叩く。


「質問の前に、質問しよう。笑ったり、怯えたり忙しいな。その態度、どういう意味だ?」


「な、名を、名を覚えていてくださったと感嘆の笑みが勝手に浮かびま、まして……。しか、しかし目を、目を合わせるなど……礼節知らずな無礼な行為と……。帝族の方とは目を合わせるとも知らない田舎者にて、とんだご無礼を……、も、申し訳ございません……」


 緊張と恐怖で唇が震えて、上手く言葉が出てこない。乾燥した口内が、粘り気のある唾液で貼りついて声が掠れる。しかし、言い切った。思わず安堵の息を出しそうになった。


「幸運だなアニュス。一つ、その本心という態度。気分が良い。二つ、これからより機嫌が良くなる。三つ、楽しい余興を思いついた。四つ、人材が欲しかった」


 礼節知らずと判明しても、畏れ多くて顔を上げられない。視線は床だが、帝弟陛下が立ち上がって、近寄ってくるのが分かった。全身の筋肉が強張る。怪我の功名だが、好印象だったらしい。幸運とは、なにか褒美でも授与されるのか。人材が欲しいとは、側近にということか? 信じられない。それなら正に幸運。


「タ、タルウィ様。ご進言申し上げます。近頃、人員不足ですので帝王陛下より……」


 ラザンが言い澱み、途中で口を閉ざした。帝弟陛下がアニュスの前からラザンの方へと移動する。


「そ、れ、で、サクリフィキウム令嬢を用意したんだろう? で、いつまで待たせる。こんな胸糞悪い悪趣味な部屋。最低最悪。俺はすごぶる機嫌が悪かった。そこの小さなアニュスが、胡麻擂りではない態度を見せるまでは特に」


 サクリフィキウム令嬢? この屋敷は中流貴族で代々裁判官を多く輩出している、ストュアート家。二人の令嬢、エミリーとライラの名が、田舎にまで届く程の美貌なので中流貴族といえど有名。噂を耳にした帝弟陛下が、美しい令嬢にお手をつけにきたというのは、この屋敷に入って主人のスチュアート氏が帝弟陛下をもてなしていた時点で見当がついた。やはり、帝弟陛下と次女ライラが昼食を共にするというので、絶世の美女が見られるとワクワクして待っていた。

 待たせるも何も、帝弟陛下が食堂に通されてからまだ十分も経過していない。スチュアート氏や執事達の様子からして、突然の訪問のようだった。全力で準備をしているだろうが、食事以上に貴族女性の支度には時間が掛かる。むしろ突如現れた帝弟陛下に対し、素早く丁寧な応対や案内に、即座に出てきた紅茶など、感心していた。


 胸糞悪い悪趣味な部屋とは、帝弟陛下の美的感覚とアグヌスの感性には隔たりがあるようだ。絢爛豪華より、質素を好むという事だろうか? 近年、上流貴族は最低限の美というのを愛好し始めているという。一粒ダイヤの首飾り——といっても、そのダイヤが巨大らしい——や、無地の官吏服の素材を超高級綿で誂え刺繍やボタンは殆ど飾らないとか、そんな話を聞いた事がある。

 チラリと確認すると、腕を組んだ帝弟陛下が、かなり険しい表情でラザンに氷のような視線を送っていた。アグヌスは、帝弟陛下の発言がどうも気になっていた。


 サクリフィキウム——……。


 サクリフィキウム——……。


 そうだ。サクリフィキウム、その意味は、生贄——……。


 生贄?


「アニュス。質問だ。女の最も美しい表情は何だ? 正解なら褒美を与えてやろう。先程、物欲しそうな顔をしていたな」


 再び名を呼ばれ、話しかけられた事を喜ぶよりも、心臓が嫌な鼓動を開始した方に意識が向く。自分の呼吸が浅く、小さくなっているのも感じた。アグヌスの前に移動した帝弟陛下が、下からアグヌスの顔を覗き込む。優しそうな笑みに、ホッとした。しかし、手の指先が震えて、首回りがゾワゾワした。何かおかしい。得体の知れない違和感がある。


「女性の最も美しい表情? え、笑顔でございましょうか?」


「質問を質問で返すとは、良い度胸をしているな。笑顔。そうか、そうか。気が合うな」


 ポンポンと肩を叩かれた瞬間、食堂の扉が開いた。淡いピンク色のドレスを纏う若い娘が、はにかみ笑いをして優雅に会釈。彼女がライラ・スチュアート令嬢か。アグヌスは噂通りの美女——どちらかというとまだ美少女——に惚けた。こんな美しい女性には、お目にかかった事がない。大聖堂に飾られる水の女神の彫像、鬼才美術家の最高傑作にも勝る端麗な容姿。


 瑞々しく柔らかそうな白い肌。薄紅そうなのに熟れた林檎のように赤い唇。照れて伏せる目に影を作る睫毛の長いこと。豊かな亜麻色の巻き毛の艶は、シャンデリアの灯りにも負けていない。首に巻かれた豪奢な首飾りが霞んでいる。ドレスの形状が決して胸を強調するものではないのに、胸の豊かさが良く分かる。そのくらい、豊満な胸だが腰周りは滑らか。アグヌスとしてはもう少し肉付きが良くても嬉しいが、決して痩せすぎではない。触り心地がすごぶる良さそう。手が長く、腰の位置も高そうなので、足も長いだろう。


「帝弟陛下タルウィ様。支度に手間取り、お待たせしてしまい申し訳ございませんでした。ライオネル・スチュアートの娘、ライラでございます。我がスチュアート家に帝弟陛下が訪問してくださるなど、感激で胸が一杯でございます」


 名を告げ、帝弟陛下に挨拶したライラの声の心地良い響きにアグヌスはため息を漏らしそうになった。高いが耳に痛くない程度で、品があるゆったりとした喋り方。蜂蜜みたい。彼女自身はその蜜の花。それも薔薇の大輪よりも咲き誇る、美の結晶花。気を抜くと誘われてしまう。


 帝弟陛下が即座にライラの手を取り、手の甲に軽くキスをした。実に柔らかな物腰の挨拶。あんな美少女に、と羨ましくてならないが、帝弟陛下という高貴な方に僻みを感じる気にはなれない。世は不平等で、生まれた時から優劣がはっきりしている。アグヌスは野原の名もない花の蜜を吸う子蜂。女王と、その子の為に餌を集める働き蜂。せっせと働けば、見返りの一つくらいあるだろう。

 切り取って絵画として飾りたい光景だなと、ついボンヤリしていたら、帝弟陛下がライラを抱き上げた。


「ラザン、帰る。こんな場所では麗しい娘に恥をかかせる。これは大変満足。よって、しばらく大人しくしてやろう。それに、そうだな。これなら三つではなく、五つ要求を飲む」


 可愛い、美しいなどとライラを褒めちぎりながら帝弟陛下が食堂から出ていった。帝弟陛下の首に、甘えるように腕を巻きつけたライラ。慌てた様子でラザンが追いかける。何か帝弟陛下に頼みがあって、捧げ物としてライラ・スチュアートを用立てたのかと理解した。サクリフィキウム、生贄とは帝弟陛下の自虐だったらしい。

 帝族の手付きという誉れに、まだあどけなさが残る令嬢は鼻高々という様子だった。純真無垢そうな清楚可憐な乙女の強かさ。流石貴族令嬢。未だ不在の帝妃の座を狙っていると言わんばかりの、野心に燃えた光を目に宿していた。アグヌスはそういう女が、どちらかというと好きではないが、それを差し引いても有り余る程、喉から手が出るくらい魅力に溢れた女性。


 権力者になれば、似たような事が出来るのか? 折角、田舎から帝都に上京となった。帝弟陛下に、好ましそうに見てもらえた。これは千載一遇のチャンス。幸福の女神がアグヌスに笑いかけている。口元が緩むのを我慢せねばと、掌を口に当てた。振り返ったラザンに、顎で来いと指示されたので、アグヌスは慌てて表情を繕って歩き出した。


 帝弟陛下と同じ馬車に乗るように促され、強く緊張するはずが、アグヌスは強烈な眠気に襲われた。


「まるで真珠のような肌だな」


 薄れる意識の中で、帝弟陛下がそう嬉しそうに零したのが、耳の奥で乱反響した——……。


 ゴトリと言う音と、衝撃、それから嫌な匂いでアグヌスは目を見開いた。鉛色の室内。ここは何処だ? 卵の腐敗臭と、錆びた鉄のような匂い。アグヌスの斜め右前方に、返り血を浴びて大泣きしているライラが立っていた。両手で握りしめているのは斧。赤黒い血で汚れている。ライラは肩で息をしていて、今にも倒れそうなくらい青ざめていた。血と涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔。ライラの小さな手から、斧の柄が滑り落ちた。


「ご、ごめ、ごめんなさ……」


 大粒の涙を流しながら、ライラが呟いた。


 パチパチ、パチパチ、パチパチと拍手のような音が室内に木霊した。


「良い子だ真珠姫。よし、その綺麗な瞳を抉り取るのは止めよう」


 後方から帝弟陛下の声がした。全身脱力していて動けず、筋肉という筋肉が弛緩していて、上手く部屋を見渡せない。アグヌスには、両手で顔を覆うライラと、鉛色の薄暗い部屋と——……。目玉が動く範囲の場所に、アグヌスの右側足元辺りに腕があった。床に転がっている。


——ひっ


 悲鳴をあげたつもりが、声が出なかった。アグヌスは、この時ようやく自分が怪我をしている事に気がついた。肘掛けの上にベルトで固定されている右腕。その腕の肘より下が切断されている。ボタボタと小さな滝のように流れ落ちる血液。床に転がる自分の腕を見つけて、嘔気がした。

 目玉を下の方に向けると、アグヌスの口から、吐瀉物が涎のように落下していた。鼻がもげそうな、腐った臭いはこれか。体もだが、頭も、首も全然動かない。自由なのは眼球だけ。どうして痛くない? 何故自分はこんなに他人事のようなのか? 混乱に恐怖、気分不快で叫び出したいのに、成す術無し。


 状況からして、アグヌスの腕を切ったのはライラ。どうして? 何があった? ここは何処だ? 無痛なのは何故だ? ダラダラと口から流れる消化不良物が、足の元の血溜まりに混ざり合う。昼食のスープとパンが変化した乳白色に黄色が暗褐色と混ざり合う。酷い光景に、ますます気分が悪くなった。目を必死に動かして、情報を集める。椅子だ。椅子に座らされて、ベルトで固定されている。座っているという感覚さえない。頭がグワングワンして、瞼が重い。耳は機能している。ずっとライラの啜り泣きが届いている。


 バシャリと顔に液体がぶつかった。感覚が無いせいか熱くも冷たくもなかった。飛散したのが透明な液体だった。多分、水。嘔吐物と血が混じったものが池のようになり、床周りが更に悲惨なことになった。


「洗ったから、お前が切ったところをよく見てみろ真珠姫。綺麗だろう? 骨まで見事に切断出来るとは、偉い子だ。次は反対側。もしくは足の指はどうだ? もう一回斧を持て」


 またしても帝弟陛下の声。ライラは大泣きして首を横に振っている。アグヌスの視界の外から、左側後方から黒い影が現れた。ライラの方に近寄って行く、帝弟陛下だった。黒くて長い腰巻きだけで上半身裸。肋骨が浮き彫りで、鶏ガラのよう。先程帝弟陛下の声がしたので、居るのは分かっていたが、どうやらアグヌスの後ろにいたらしい。

 

 狂気と悦楽に満ちる帝弟陛下の爛々とした瞳が、あまりにも恐ろしい。帝弟陛下の右手にはナイフ、左手には酒瓶。


「い、いやあぁぁ……」


「その声、もっと出せ。良い。それに顔も良いな。命令違反には罰なんだが、むしろ褒美をやろう。ああ、何て良い女だ真珠姫」


 帝弟陛下の甘く、優しい猫撫で声に、心臓が爆発するように暴れた。ライラが、少しだけ後退りして首を横に振った。助けて、嫌だ、来ないで、お父様、お母様。その単語を壊れたオルゴールのように繰り返すライラ。顔をこれでも無いというほど歪めるライラが、震える足をもつれさせて、尻餅をついた。


「助けて! そうか。なら縋る相手が違うなあ。そうだろう? ここにはお父様も、お母様もいない。そうそう、水の女神も不在。なあ真珠姫。タルウィ様、どうか助けて下さいだ。さっきは上手くおねだりできたのに、どうした?」


 酒瓶に直接口をつけて酒を呷った帝弟陛下。ナイフを指揮棒のようにひらひらさせながら、ライラと距離をつめる。


「い、嫌……」


 帝弟陛下が酒瓶をライラの後方に投げた。壁にぶつかった酒瓶が盛大な音を立てて割れる。ライラが目を閉じて固まった。


「目を開けろ。立て! 死、に、てえか? 他の女みたいに、全身刺しても良いんだ。その白い肌には赤が良く似合う。柔らかそうな肉に、刃が突き刺さる感触は絶頂だろう」


 帝弟陛下がライラの胸にナイフを突きつけた。ひっ、とライラの小さな悲鳴が響いて、消えていった。震えながら立ち上がってたライラ。帝弟陛下の掌が、ライラの頬に触れる。逆らったら即座に殺す。そういう状況なのは、当事者ではないアグヌスでも分かる。ライラは必死というように目を開いた。


「めった刺しにしてえな。考えただけで身震いする。高揚感が凄い。真珠姫ちゃんよお、俺は我慢しているんだ。お前のような絶品極上は珍しいので、なるだけ長く、長ーく楽しみたい。しかし、その不埒な胸を浅く刺して脂肪を掻き回したい。内臓を引きずり出しながら、快楽を教え込みたい。ん? ん? なあ、どうするべきか分かるか? ご機嫌取りの方法は笑うことだろう?」


 寡黙そうだった帝弟陛下は饒舌。新しい遊びを思いついた子供のような、楽しげな笑顔。ライラが無理矢理というように笑った。酷い有様の泣き笑い。過呼吸気味になっている。首を左右に動かし、縦に振り、眉間に深い皺を刻み、唇の端を上げようとするライラ。帝弟陛下がライラを床に押し倒し、馬乗りになった。よくよく見れば、帝弟陛下達がいる場所はアグヌスの位置より少し高く、黒い毛皮が敷いてあった。

 抵抗の為に振り上げられた、ライラの細い腕が帝弟陛下に掴まれる。帝弟陛下が、片手でライラの両手を拘束した。ナイフの刃を、ヒタヒタとライラの頬に当たる。


 髪も、体も、桃色のドレスも床の血で更に汚れた大号泣するライラ。若々しくて張りのある頬を、欲情を顔に浮かべる帝弟陛下がゆっくりと舐めあげた。


「い、いやぁ……。あぁ……っ……。やあ……」


 身を竦めて消え入るような悲鳴をあげるライラ。可哀想なことに、高い声と漏れ出る吐息には、誘うような甘美さがある。ライラの顔を舌で堪能した帝弟陛下が、今度は手に持つナイフでドレスの胸回りを切った。ナイフをライラの顔の横に突き立て、切れ目を入れたドレスを掴む。ビリビリと破られたドレスから、男の掌でもおさまらない大きさの胸が飛び出した。弾力がありそうな、重力に逆らう胸。ライラの血塗れの頬を、美味しそうにねっとりと舐める帝弟陛下は気持ちが悪いとしか言いようがない。なのに、アグヌスの血も滾る。熱が下半身に集まっている。


「はあ……。何て可憐で、愛らしく、美麗なんだ。笑え、真珠姫。もっと笑え。絶望の中で恐怖に染まりながら笑う女が、最も美しい。人間ってのは、少々傷つけられても死なない。そこの男のようにな。媚びなきゃああなる。逆らうなら絶対に情け容赦をかけないし、おまけに殺さない。死ねない地獄を味わいたいか? 抵抗せず、俺を満足させる努力をする良い子なら、痛い目には合わない。お前が特別だからだ。どうする? 俺は優しいが、気は短い」


 帝弟陛下がライラの手をそっと離した。ライラは抵抗しなかった。「賢い良い子だ」と帝弟陛下が優しく、慈しむようにライラの髪を撫でた。ライラを褒めながら、帝帝陛下の片手が堪能するように胸を揉み、もう一方の手はドレスをたくし上げる。


「こんな態度だと足りねえ。これだと血や痛みに歪む顔が無いと興奮が足りねえぞ。真珠姫よ、ねだれ、甘えろ、笑え、感じろ、誘え、何をするにも淫らにだ。生娘だと分からないか? 長く滑らかな脚に紅の化粧をして広げるとかだ。腰を浮かべて揺らすのもいい。ああ……。果実より甘そうな肩を噛みちぎって食いたいなあ……」


 帝弟陛下がナイフを掴んでから、ライラの上からどいた。震え過ぎて動けなくなっている様子のライラが、しゃがんだ帝弟陛下に見下ろされ、ナイフの刃を腹に突き立てられる。


「腹わたを握られながら、激しく犯されたいなんて、真珠姫はふしだら娘だなあ。よし、三つ数えたら望み通りにしてやろう」


 あまりにも楽しそうな帝弟陛下。手慰みをしながら、ライラに微笑みかけて、ナイフの刃でライラの腹をペタペタと叩いている。


「いーち」


 必死というように、ライラが震えながら起き上がって、嫌々と髪を振り乱した。


「にーい」


 先程、帝弟陛下が命じたように脚を開く為にか、下着を下げ始めた。舌舐めずりをして、薄い唇を濡らす帝弟陛下。手をライラの足の指から脹脛ふくらはぎ、太腿と中心の方へ這わせている。


「純真そうな顔をして、ちゃぁぁんと教育されてるのなあ? どうすれば良いのか知っているんじゃないか! 深窓のご令嬢に生まれた意味をきちんと教えた両親に感謝しろ。男に奉仕だ奉仕。快感を与える仕事。男が何で喜ぶか教わっているとは実に感心。極上絶品が自ら進んでっていうのに高い価値がある。一方的じゃいつも通りでつまらん。そこらの女を、使い捨てで事足りる」


 目の前で繰り広げられる倒錯的光景。夢か。夢だろう。何せ痛くない。体が動かないし、声も出ない。脅迫されて、必死に演じるライラの痴態に興奮している自分も、残虐非道な行為も、現実に思えない。帝弟陛下がライラを自分の上に乗せた。


 パァァン。


 銃声が響き渡った。アグヌスの見える範囲では誰が撃ったのか、何が撃たれたのかも見えなかった。ライラの絶叫が耳を貫く。帝弟陛下はライラの胸を両手で揉みしだきながら、腰を上下に揺らして、大笑い。


「あっはは! すげえ締まった! 上手だ真珠姫! 俺を愉しませなきゃ、ああなる! おい、片付けようとするんじゃねえ! この無能共! 脳漿と目を持ってこい! 俺のこの最高気分を台無しにしたら、どうなるか分かってるんだろうなあ!」


 帝弟陛下の激怒の咆哮と鋭い眼。肉食獣のような帝弟陛下の視線に、アグヌスも身の危険を感じた。邪魔をしたら殺される。それも、一思いにではないだろう。そういう予感がする。

 ライラは恐怖で振り切れたようで、虚ろな目で大人しく揺さぶられている。痙攣のように笑っているが、感情を失ったような様子で、もはや人形のよう。アグヌスの視界に、黒い服の者が三人入ってきた。三者とも小太りで全面兜フルメットを被っている。目の部分が灰色のガラス張りのようになっているので、顔は見えない。


 一人が恭しいというように帝弟陛下にスプーンを差し出した。乗っているのはドロリと何かで汚れた目玉だった。脳漿と目、そう言っていたのはこれなのか……。 持ってこい、が食べさせろだなんて予想外にも程がある。吐くものが無くて、アグネスの口から胃酸が飛び出した。もう吐くものがないらしく、酸っぱい黄色い液体だった。体が動くようになってきている。ジワジワと痛みを感じるようになっていた。切られた腕が熱い。


 小太りの黒服——おそらく男——が、アグヌスの切断部を手当てし始めた。血を流し続けていたからか、目の前の異様な状況に耐えられなくなってきたのか、疲労や現実逃避なのか、どれなのか分からないが、意識が遠のいていく。


 霞む視界に、激しく揺らされる白い肢体。ライラの肌についた血が赤い斑点になっている。地獄にも花は咲くらしい。たった一輪、手折るのを許される唯一のための大輪。獄炎で萎れ、枯れる、悲惨な花。


「いい! いいぞ真珠姫! 明日はナイフの使い方を教えてやるからな! それとも斧を振り回して鬼ごっこをするか? 毎回、こうして褒美をやるからな! 俺がすぐ殺さないなんて、上機嫌中の上機嫌の時だけだ! 己の稀有な美に感謝しろ。オオッゥ……ウゥ……イイ! ほらもっと、もっと可愛くねだれ」


 声を出せと命じられたライラが、嘘くさい嬌声を上げた。夢ではない。痛みが増していて、そう伝わってくる。ライラに覆い被さった帝弟陛下が、ライラにナイフを振り上げた。多分、そう。ぼやけ過ぎて、よく分からない。目がチカチカする。暗闇が星空のように変化した。それなのに、最悪な気分。


 漆黒の海に沈んでいく感覚がした。赤と白が暗転して、飲み込まれていく。


 暗い……


 ——……


 ——……


 激痛で飛び起きると、余計に痛みを感じた。冷えた風が吹き抜ける。大量にかいている汗に、冷風のせいで凍えそう。アグヌスが周りを見渡すと、森だった。夢を見たと思ったが、失われた腕と傷の痛みが現実だと伝えている。落葉して、半裸になっている木々の向こうに見える白銀の三日月。帝弟陛下の薄い唇と似ていると感じた瞬間、嘔吐感が腹底から噴出し、アグヌスは体を丸めて呻いた。胃は空っぽのようで、アグヌスはひたすらえずき続けた。


 しかし、その一方で興奮覚めやらなかった。真珠のごとき柔肌に、甘ったるい声色の悲鳴。生にしがみつく必死な笑み。燃え尽きる直前の、爆発というように、ライラはとびきり美しかった。


 一月後、隣国との戦争にて、帝弟陛下の軍が圧勝に貢献したという話を聞いた。それから、新しい麻酔薬が開発されたということも、病院で耳にした。つまり、そういうことなのだろう。


——これなら三つではなく、五つ要求を飲む


 帝弟陛下は、この国にあと三つ、何かを与えたようだがどんなものだろう。真珠姫とあだ名を付けられた貢物の令嬢が、この国に与えた五つ。我が国は、そんな風にして栄えてきたのだろう。人の欲望は尽きない。生贄サクリフィキウムは減らないどころか、増えるかもしれない——……。



 五十年後。



 アグヌスは帝都の外れで、孤児院を管理している。かつて片手を失ったが、利き手では無かったのでそれなりに働けた。孤児院を任されたのは隣国との戦争前の出来事だったが、名誉の負傷と間違えられて色々助かってきた。


 今日は、新しい孤児を預かる事になっている。約束の時間、相手は時間通りに現れた。全身頭から足先まで黒い法衣に身を包んだ、男か女かも分からない人間。アグヌスには誰なのか直ぐに分かった。常連なので当然。その人物が腕に抱く、純白の真新しいフワフワした布にくるまれた赤子を、アグヌスは壊れ物を扱うように受け取った。


「これは何とまあ……可愛らしい……」


 腕の中の赤ん坊は、真珠のような肌をしていた。落ち葉色の瞳。亜麻色をした少し癖がある髪。またこの容姿。赤ん坊が、抱きしめられて嬉しいというように、きゃっきゃっと笑った。


「いつも御苦労。また頼む。で、これは特に大切な複製機。大事に、かわゆく、そして淑女に育てろよ。今度は少し成熟したのを楽しみたい。色々と良い脚本も頼むぞ。気に入りにはならないが、それなりなのを何匹か献上されたので、それについても任せる。お前は本当に楽しい余興や本番を考え出すからな。で、お前が選んだ女はどこだ?」


 期待の台詞に、アグヌスは笑顔で「はい」と答えた。それから、洗濯物を干している修道女の名を呼ぶ。夫を亡くした未亡人。そろそろ円熟した女が欲しいだろうと、用意しておいた。


「マリー、洗濯物は私が代わる。来なさい」


 手招きすると、マリーが駆け寄ってきた。


「こちらが例の公爵様だ。とても優しい方で励めばご褒美をくださる。賢く、礼儀正しいマリーなら、ご令嬢の優秀な乳母になれるだろう」


 マリーが「はい、神父様」と誇らしげに笑った。黒法衣の人物が、フードを外した。顔がまた変わっているが帝弟陛下に違いない。何度も会ってきたので、空気で分かる。静かで穏やかな帝弟陛下の微笑みに、マリーがはにかみ笑いをした。懸命に丁寧な会釈をして、やる気に満ちた声で「支度してあるので荷物を取りに行ってきます」と、聖堂に向かって駆け出すマリー。


 アグヌスが新たに運んだ、頂点たる蜂への甘い蜜。ついそんな喩えを語ったら、帝弟陛下は不満げだった。


「働き蜂なんざ、格好良すぎる。おまけに俺とお前が蜂同士とは頭が高い。のらくら生き抜いてきたのに、死にてえのか? まあ、鞭ばかりでは誰も働かない。優秀な者は大事にせねば滅びる。お前は大蜘蛛が食らう蝶を捉える粘着質な糸。そんなところ。その糸が作った巣だな、ここは。蝶々が沢山飛んでいて腹を減らす暇がない」


 帝弟陛下が、アグヌスの肩を労わるように叩いた。いつも通り金貨が入っているだろう、麻袋を受け取る。アグヌスの故郷である田舎が、より栄えるに違いない。


 木漏れ日の中、静かに微笑む帝弟陛下。品の良さを醸し出しているのに、中身は狂っている。何も知らなければ、見抜けない。


 帝弟陛下の年齢は百年を超えたというのに、未だそれなりに若々しい中年男性。定期的に顔が変わるし、歳をとる気配もまるでない。


「見事、的確な比喩でございますね。これまでのように、これからも巣に沢山の蝶々をお飾り致します」


 帝弟陛下が唇の片端を持ち上げた。アグヌスの腕の中で、赤ん坊がスヤスヤと眠りだす。蝶よ花よと育てられ、最後は大蜘蛛の口に放り投げられる。そんな未来を知らない、無垢な寝顔。この子の母親が誰なのか、どうなっているのか、考えるのは恐ろしい。接し続けて、帝弟陛下の捻れ狂った思考を少しは理解している。帝弟陛下は、あれ程の極上品を簡単には手離さない。アグヌスに抱かれて眠る赤ん坊の温もりに、薄ら寒さを感じた。これで三人目。


 二度と巣の中央にだけは行きたくない。


「帝王に伝えておけ。例の件、まあ引き受けてもいい。サクリフィキウム令嬢を楽しみにしているからな」


 アグヌスは「仰せのままに」と、敬意を目一杯込めて礼をした。ほどなく、マリーが荷物を手にして戻ってきた。簡単な別れの挨拶をすると、帝弟陛下がマリーの腰に腕を回した。二人が馬車に乗る。馬車内に、奇妙な黒い塊が見えたが気にしないようにした。馬車がみるみる遠ざかっていく。


 我が国には化物が住んでいる。可憐な蝶を食い潰す大蜘蛛。巨体に、鋭い脚、牙、そして特大の巣穴を有している。


 しかし、誰も化物退治などしない——……。


 アグヌスは麻袋から金貨を取り出して、軽くキスをした。可愛い蝶は、何も大蜘蛛だけのものではない。好き嫌いにより、食べない分が残っている。今夜は贅に酔いしれよう。アグヌスは鼻歌混じりに歩き出した。

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