66 恋

「私もね、好きな人、先生なんだ」


「えっ? あ、学校の?」


「うん。音楽の」


「へえ。どんな先生?」


「チャビってあだ名で、本人わかってないと思うけど、実はハゲチャビンの略なんだよね」


「ひっどい!」


「ほんとハゲてんだもん。お腹も出てるし、背低いし」


 どこが好きなの? と口走りそうになった。かわいいキャラクター的な意味で「好き」なのかもしれないと思ったから。


「黒板の字とか超汚いくせに、ピアノめっちゃうまくて。すごいんだよ。歌ったらオペラの人みたいだし」


 ミレイは休みなくしゃべり続けた。


「面白いから人気あるんだよね、男子にも女子にも。合唱部の顧問だからさ、合唱部、部員多すぎ注意報で。歌とかお前ら興味ないだろみたいな。ま、私もその一人だったんだけど」


 ミレイの「好き」は本物だった。


「授業とか、みんなの前ではちょっと演じてるっぽいとこもあるんだけどね」


 彼女は恋をしていた。


「でも一人で質問とか行くと、また冗談とか言うのかと思ったらすごい真面目な顔になって。本気で進路相談とか乗ってくれちゃって。なんかそれが男に見えちゃったっていうか」


 そうだった。そういえば恋ってこんなだった。


「でもね、結婚してるんだ。子供もう大学生だって。そりゃそうだよね。年も年だもん」


 一希は黙って聞きながら、布団の端でそっと目尻をぬぐった。


「よかったーと思っちゃった。もしさ、独身とか言われたら、こっちだってなんか頑張っちゃうじゃん。無駄に頑張っちゃう。そんで、頑張ってる自分に酔ったりとかしちゃいそうじゃん。合唱部もさ、追っかけ根性だけで居続けてもしょうがないし、それはチャビにも悪いと思って結局辞めたんだ。……ちょっと何泣いてんの!? 一希ちゃん!」


「ごめん、だって……」


「やだー! そういう段階もう過ぎたから私。去年去年。もう終わったんだってば」


 でも、「好きだった人」とは言わなかったくせに。


「このマセガキが!」


と襟元をくすぐってやると、全くマセていない黄色い歓声が上がった。


(先生が好き、か。若いなあ……)


 自分にもこんな頃があったなあ、などという感傷が首をもたげる。しかし、十四歳当時の一希は果たして、今のミレイのようにからっとした生き方をしていただろうか。ミレイとて悩みがないわけではないだろうが、はたから見る限りはかなり恵まれた家庭に育っている。立派な仕事に就いて町中からしたわれているお父さんと、専業主婦の優しいお母さん。そして元気いっぱいの弟に、愛らしい妹。


 廊下の向こうから、処理室の扉が開き、そして閉まる音が聞こえた。ミレイに布団を貸してしまった新藤は、今夜は徹夜を決め込んでいるのかもしれない。カレンダーに書かれていた限りでは特に予定の作業はなかったはずだが、工具の整備でもしているのだろうか。仏頂面ぶっちょうづらで淡々と手を動かす新藤の姿を思い浮かべる。


 ミレイと新藤が仲良く同じ皿をつつく様子を本当の親子みたいだと微笑ましく眺めた一希だが、新藤が普段使っている布団に何の遠慮もなくくるまってすやすやと眠るミレイの姿には、やや複雑な感情が湧いた。


 先生として尊敬してはいるけど……。「けど」何なのかとミレイに問われた時、男の人として見たことはない、好きとは違う、と断言できなかった。何もバカ正直になる必要などない場面なのに、偽ることすらできなかった。


 一希の感情はいつの間にか、一希自身が自覚していたより一歩も二歩も先へと進んでしまっていたらしい。

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