soixante-dix-huit
「たまには良いじゃない」
私はお猪口サイズに入れていた日本酒を飲み干した。それにしても普段の年であれば仕事始めであろうのに、何故またスーツなんか着てんの? しかもそれまこっちゃんに仕立ててもらったカジュアルスーツだよね?
「そっちこそ何? その格好」
スーツ姿に触れないのも不自然かなと思い一応訊ねてみるが、てつこは私を見下ろしたままですぐには答えない。
「あぁ、正月に言ってた……」
「まぁ、そんなとこだな」
へぇ、今日だったんだ。ってことは婚活パーティーの前後で話は出てたんだろうね。
「結構動いてんだね」
「やれることはやっておかないとな。相手の女性には失礼かもしれないけど、やっぱり杏璃を手放したくないんだ」
そっか、杏璃最優先での婚活だもんね。気乗りこそしてない表情だけど、背に腹は変えられないか。
「ところで車で来なかった?」
「瀬田さんに乗っけてもらった。お相手の女性が奥さんの知り合いで、仲介役を買って出てくださったんだ」
瀬田さんのお知合いのお嬢さんかぁ、ならある程度てつこと杏璃との相性も考えてくれそうだよね?
「で、どんな感じだった?」
私は興味本位で今日の成果を聞いてみるが表情が渋い。ん? 合わなかったのかな?
「どんなも何も、元カノだった」
えっ? マジ?
「帰国されてたんだ」
確か高校卒業と同時に移住なさったとか何とかって。
「あぁ、学習塾の講師で六歳以下の子に英語教えてるって」
「良いじゃない、勝手知ったる仲なんだから話進めてもらったら?」
杏璃と気が合えば言うこと無いじゃない。
「ったく、テキトーなこと言いやがって」
いや何怒ってんのよ? 当事者じゃないんだからテキトーに決まってんじゃないの。
「何? 杏璃と合わなかったの?」
「会話自体は普通だったけど」
だったら問題無いじゃない、あの子少しでも気が合わないと察知した相手とはひと言も口聞かないよ。それとも空気読んで当たらず触らずの態度を取ったのかな? まぁまともに相手の目を見れなかった時期を思えば成長と言えるんだろうけど。
「杏璃連れてったんだ」
「あぁ。まだ冬休み中だし、子連れ婚の覚悟はして頂いた方がいいかと思って」
「ウチで油売ってないでちゃんと話し合いなよ」
「そうしたかったんだけど、杏璃にここで降ろされた」
何やってんの、娘に放り出されてどうすんのよ。
「最近杏璃に連戦連敗状態じゃない」
「もう参ってんだよ、いつの間にあんな口が立つようになったんだろうな」
はぁ。てつこは肩が下がるくらいの盛大なため息を吐いた。にしても何でそんなことしたんだろ? これは中西家の問題なんだから私が口を挟むことではないはずだ。
「この時期の子ってみんなそうだと思うよ、子供から大人に差しかかる過渡期みたいなもんでしょ。アンタにだって憶えない?」
親の“絶対”に疑問を持ち始めるというか、自我を表現する術を使いこなせるようになるというか。かく言う私はちょうどその時期に両親を亡くしちゃったから自然消滅した感じだけど、一応あるにはあったなぁそういうの。
「思春期からの反抗期か、この時期に余計なことしたくなかったってのが俺の本音だよ。でもなっちまったもんはしょうがない、杏璃が母親との同居を望んでない以上、親父としてその願いは叶えたいんだ」
「杏璃が納得してるんなら思った通りにやればいいと思うよ、私はとやかく言える立場じゃないからさ」
テレビドラマへの怒りも癒えて体も冷えてきたな、立ち話も何だし、徒歩五分もあれば帰れる距離だからちょっとだけ上がってもらおうか。
「アンタも飲む? お菓子系で良ければおつまみもあるよ」
「なら遠慮無く。台所借りていいか?」
いいよ。てつこを家に招き入れ、私は縁側に置いている日本酒とおつまみをリビングテーブルに移動させる。てつこは家に入ると冷蔵庫に直行し、上着を脱いでワイシャツの腕をまくると、適当に食材を見繕っておつまみを作っていた。
私も多少手伝った方がと思いながら冷蔵庫を開けると、消費期限が今日までの生牡蠣がゴロンと転がっていた。牡蠣ってどう食べるのが美味しいのかな? いえ牡蠣は好きですよ、ただ料理をしませんのでレパートリーが思い付かない。
「てつこ、生牡蠣今日までなんだけど」
「んじゃバター炒めにでもするか、簡単だから。それとさ」
と言いながら野菜室を開けると、透明な袋に入った根元部分二分の一ほどの大根を取り出した。それにはマジックで【ス入り】と書かれてあり、てつこは牡蠣に視線を移してそういうことかと呟いた。私もス入り大根が入っているのは知っていた。ただそれをどう使うのか分からず、姉に任せておけと見て見ぬふりをしていた。
「おろし金どこだ?」
てつこは有砂ほど頻繁に出入りしないから、勝手知ったるとまではいかず、キッチンと一体化している引き出しを開け閉めしてる。
「立ってる所の引き出しにスライサーセット入ってる。それと専用のタッパーがあるからそれにセットしてから使って」
「ん……それってコレか?」
「うん。大根おろしてどうするの?」
そうそう、肝心なこと聞かないと。
「牡蠣を洗うんだよ、ひだの汚れを落として臭みを取るんだ」
へぇ~、さすがお料理なさるからよく知ってるねぇ。
「お前さぁ、家庭科の授業どうやって乗り切ったんだよ?」
「牡蠣なんて高級食材使う訳ないじゃない」
「いや実習に無くても学科で習うだろ」
そうだっけ? そんな昔のこと忘れたわ。てつこは私の返答になど期待していない様子で、するすると包丁で大根の皮を剥いていく。やっぱり上手いもんだねぇと呑気そうに見てたんだけど、おろすことくらいは手伝った方がいいわよね?
「大根、おろそうか?」
そう声を掛けるとてつこの動きが止まって、とんでもない物でも見るかのような視線を向けてくる。いえ待ってよ、お手伝いするって言った後の反応じゃないよねそれ。
「気持ちはともかく、できるのか?」
「さぁ、長らく洗いもの以外でここに立つこと無いから」
やったこと自体はあるから何とかなるでしょ、多分。大根をしっかり握っておろし金にこすり付けりゃいいんだよね? あっ、力加減も程々にしないと握り潰しちゃうわ。
「はるさんの気持ちが分かった、今すぐ俺から離れろ」
え~っ、
「ちょっとどういうことよそれ?」
「台所に立ってるだけでホラーものだな、何しでかすか分かんねぇから手伝わせるとか無理」
何よそれ? でもこの生活だって一生涯続くわけじゃないんだよ、私だって女子力鍛えたいんだよ……ぶちぶち。まぁ離れろと言われてしまったんで仕方なく台所から離れ、長窓においてあるてつこの革靴を掴む。
「靴、玄関に移動させとくよ」
「いやこれ食ったらすぐ帰るぞ」
天気予報見なかったの? 夜から雨だって言ってたよ。そう言おうと思ったところで、革靴を持ち入れて窓を閉めた途端ポツリポツリと雨音がし始めた。
「あっ、雨降り出した」
「マジかよ? 俺傘持ってないわ」
「予備のビニール傘があるから使いなよ。そう強くはないけど、スーツ濡らすのは具合良くないでしょ」
私は革靴を玄関に移動させ、予備用の傘の有無を念の為チェックしておく。我が家はそれなりに人の出入りがあり、冬樹がしょっちゅう傘を忘れてはコンビニでビニール傘を買うので、この手のものが何気に役に立っている。たま~に帰ってこないけど、溜まりすぎて棄てることもあるのでむしろ傘にとっては幸せな旅立ちなのかも知れない。
そう言えば元彼
「さすがに今も使ってるってこと、無いわよね」
少々おセンチになったところに、加熱されたバターの香りがキッチンから玄関にまで流れてきた。あぁお腹空いてきた……昔を思い出してしおっとしたところで空腹に勝てるはずがなく、たまに出てくる女子ちっくな思考などあっさりと忘却の彼方に追いやっていた。
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