trente-six

 国分寺先輩は茄子が苦手だった。

 

 私が通っていた高校の文化祭は部活動単位で催しをすることになっていた。二学期に入ってすぐくらいに私の家に集まって出し物を決め、姉の手料理が夕飯となった。

 当時は姉を兄と紹介していた。家にいる時は男の子口調だったので僕っ子女子みたいな感じだった。当然だが皆には驚かれた。でも当時から美人で優しくて料理上手な彼女に男子部員はすぐメロメロになり、しょっちゅう席を立っては姉に声を掛けまくっていた。

『もうお姉ちゃんで良いだろ、そこらの女子よか全然可愛いし』

 余談ではあるが部長はそれ以来事ある毎に家に来ては姉の手料理を食べに来るようになり、秋都や冬樹とも仲良くなった。最初は姉狙いなのかと思っていたが、慣れてくると当時付き合っていた恋人や一回り歳下の妹さんを連れてきたりしていたのでそういう考えはそもそも無かったらしい。で話を元に戻して、姉が初めて出した手料理が麻婆茄子だったのだが、先輩がそれに手を付けないのでメグさんが声を掛けた。

『あれ? 麻婆茄子食べてないじゃん』

『あぁ……茄子苦手なんだ』

『そうだったんですか? すみません、何か別の出しますね』

 知らなかった。先輩が辛いもの好きなのはリサーチ済みだったのだが、私の好物が茄子だったせいか麻婆茄子は大丈夫だと決め付けてしまっていた。

『お兄ちゃん、茄子が苦手な先輩がいらして』

『分かった、餃子があるからすぐ焼いて持ってくよ』

 姉は動じること無く冷蔵庫を開け、買い置きしていた○ン○ン餃子を焼いてくれる。それから程なく冬樹が幼稚園から帰宅してきてキッチンで揉め始めた。

『あ~っ! ぼくのぎょうざ~!』

『ふゆだけのじゃないだろ、後で買いに行こう』

『それじゃなきゃヤダ~!』

『同じだって、夕飯にはまだ早いじゃないか。ほら、それに名前書いてなかったよ』

『ううぅ……』

 姉は冬樹を言いくるめて焼きたての餃子を持ってきてくれた。冷めないうちにどうぞと言い切らないうちに冬樹がお箸を持って客間に乱入、私の隣にちゃっかり座って出したばかりの餃子を独り占めしたのだ。

『コラッ! 卑しいことすんな!』

『ヤダッ! ぼくのだもん!』

『後で買ってあげるから』

『ぼくこれがいい!』

 と兄弟喧嘩を始めてしまった姉と冬樹。

『二人ともここで喧嘩しないで』

 私が仲裁に入ると姉はすぐ我に返ってみんなに謝っていた。その間冬樹は餃子を頬張り、一人ご満悦だ。

『まぁまぁお姉さん、俺ら充分もてなしてもらってますよ』

 部長の言葉に男子部員どもは頷いてる。うん、男は美人に甘い生き物らしい、男なのだが。

『何かすみません、俺のせいで』

 先輩は罰悪そうに姉に頭を下げてる。

『そう思うんなら一口だけでも食え』

『そうだよ、はるちゃんの料理は絶品なんだから』

 部長とメグさんは麻婆茄子を先輩に押し付ける。確かに姉の手料理で不味いものはほぼ皆無だが、あまり押し付けて更なる苦手意識が増幅されても困る。少しハラハラしながら見守っていると先輩は麻婆茄子に箸を伸ばし、一口分つまんで口に入れた。

『あの、ご無理なさらないでくださいね』

 姉も先輩の動向を緊張した面持ちで見守っている。先輩の動きが一瞬止まったが、丸呑みすることなくゆっくりと咀嚼を始める。その間に秋都が帰宅してきて姉は玄関まで迎えに行ったのでその後の事は見ていないと思うのだが、結論から言うと先輩はこれがきっかけで茄子嫌いを克服したのだった。因みに冬樹は頑張ったが全部は食べ切れず、私が残飯処理しようとするとダメッ! とお皿をギュッと握りしめる。

『これはこのおにいちゃんへのごほうび!』

『何でよ! 食べ残しを先輩に食べさせる気なのっ?』

 そんなことさせられるか! 当時から怪力の片鱗(言ってて悲しい、ぐすん)は出てきていたのであっさりお皿を取り上げると、先輩はさっとそれを手にして自身の方に引き寄せてしまった。

『ありがとな、遠慮なく頂くよ』

『うん、ぜんぶたべていいよ♪』

 先輩は何も気にせず冬樹の食べ残しをきれいに平らげてくれました。食事を終えて一服している間に先輩だけは甲斐甲斐しく姉の片付けを手伝い、食後のデザートまで運んでくれた。今思えばあの麻婆茄子が彼の胃袋をメロメロにした様子だ、以来ちょくちょく姉のことを訊ねてくるようになった。


 当時先輩に片思いをしていた私にとっては複雑だった。色々お話出来るようになったのは嬉しかったが、会話の端々に姉のことを挟んでくるのでもしやと疑いの気持ちも持ち合わせてしまう。元々付き合ってる訳でもないので私の醜い嫉妬心に他ならないのだが、ほんのちょこっとの邪心が姉を責め立てていくのがとにかく嫌だった覚えがある。

 そんなことが繰り返されると大好きなはずの先輩と顔を合わせるのが辛くなる……私は時々満寿美先生の許可を得て昼休みはよく一人で図書準備室にこもっていた。図書室も開放されているのだが、私はここの方が好きだ。

『ここに居たんだな』

 この日も一人図書準備室にこもっていたところ先輩が一人でふらっと現れた。私はいつになく動揺してしまって上手く言葉が出てこない。

『えっ、えぇ』

『んじゃ今話せるか?』

 先輩はそう言って向かいの椅子に座った。きっとまた姉のことだ……そう思い込んでしまった私はあの! と自分から話を切り出した。

『先輩って兄が好きですよね?』

『へっ? 急に何言い出すんだ?』

 先輩は完全に動揺して顔が徐々に赤くなっていった。肯定を意味するであろうその表情を見ていられなかった私の視線は段々と下に落ちていく。

『あっ兄には恋人がいるんですっ!』

『……』

 今思えばかなり一方的なやり方をしてしまったと思う。でも当時の私には姉に心を奪われつつも親しく接してくれるのがどうしても耐えられなかった。姉に近付きたいから仕方なく私にも声を掛けてくれてるんでしょ? 捻くれきった私の邪心のせいで先輩の心を踏みにじった。私は下を向いて必死に何かを堪えていた、泣きそうというよりは喚きそうな気分で心の中はグチャグチャになっていた。

『五条、顔を上げてくれないか?』

 先輩は変わらず優しく声を掛けてくれる。今だと姉との橋渡しだけで私に優しくしてくれてる訳じゃないって分かるのに……きっと物凄い顔をしているであろう自分自身を見せたくなくて首を横に振った。

『じゃそのままでいいよ。俺はお兄さんのことが好きだ、それは事実だよ』

 話の賽を振ったのは私なのに、聞きたくなかったと耳が拒否をしているのか脈の音が聞こえてくる。私は下を向いたままギュッと目を瞑り、気付けばスカートをシワが付くまで握りしめていた。

『でも今の俺じゃ春香さんに相応しい男とは言えない。彼はもう既に自立していて家計を支えてる大人だけど、俺は何だかんだで親に甘えた生活をしてる高校生に過ぎないんだ』

 先輩の口調はどこか投げやりだった。心の何処かで実らぬ恋だと割り切っているつもりでも、気持ちがそこにいかなくて悩んでいたのかも知れない。こんなこと言うんじゃなかったと後悔の念が沸き上がってきたところで予鈴のチャイムが鳴った。

『次体育だから先に戻るな。俺の話はまた後で』

 先輩は立ち上がって私に背を向けると図書準備室から出ていく。ようやく顔を上げた時に見た彼の背中は寂しさも纏っていた。

 その後授業に戻る気になれなかった私は体調不良という事にしてそのまま早退した。夜になってメグさんからメールがあり、先輩は文化祭を最後に読書愛好会を退会すると告げられたのだった。


 今思えば話ってそのことだったのかな? そう思えば思うほどあの時の自分の行いに後悔が付きまとってくる。今後姉との交際が順調にいけば私たちきょうだいとの顔合わせもあるだろう。それを考えると今から気が重い、破局してくれとまでは思わないけど先輩と対峙できる勇気はまだ持ち合わせていない。どうしよう……私はそのことで頭が支配され、声を掛けられるまで現状をすっかり忘れてしまっていた。

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