夜汽車、ふたりの少女とふたりの男 Ⅴ


◇ ◇ ◇


(これは……まさか、死ぬ?)

 夜風に容赦なく体をなぶられながら、エリファレットは他人事のように考えた。

 山を切り拓いた鉱山鉄道、その線路が通る切り立つ崖の下。右手にはヴィネグレット気付け薬の鎖、左手には薔薇の太い蔦を掴み、宙からぶら下がりながら。

 薔薇蔦は崖上に生えた樹木にかろうじて絡みつき、少女を何とか生きながらえさせている。デッキから落ちた瞬間、咄嗟とっさの機転で魔術によって再現したものだ。

(この高さで、飛び降りることは難しいし――)

 チラリと崖下に目線を向け、慌てて視線を宙に戻す。足もとに広がる急峻の傾斜面には、針葉樹林の森。アケイシャは曠野あれのの国と言われるほど、不毛な赤土と泥炭地帯が国土の大半を占める。そのなかにあって、古くからこの一帯は危険な場所として周知されていた。銀鉱床の発掘によって鉄道網が整備されはしたものの、険しい山岳地帯であることには変わりない。

(時計塔のときは火事場の馬鹿力かと思ったけど、ちゃんと魔術は使えた。でも私の力だと、長くは持たない。腕の力が尽きる前に、蔦のほうが駄目になる……)

 自身の紋を知ることで、《奇しき薔薇の聖女アケイシャ》の力を引き出すことができた。しかし魔術配列が損傷していること自体は嘘でなく、かろうじて使える、という程度だ。この状況においては――残酷な真実でもある。

 優秀な魔術師であれば、鳥や、そうでなくても翼の生えた獣をび、難なく地上に戻れるだろう。しかし、エリファレットには陳腐な蔦で精いっぱいだ。

(やっぱり、落ちこぼれだったというわけ)

 薔薇の蔦自体は、エリファレットの体重を支えられる程度には頑丈だ。しかし、これ以上世界に顕現させておく力がない。よじ登る前に灰に還る確信がある。時計塔の時のように、サイラスが地面で待ち構えている訳でもない。迎えうる未来は死のみ。

(絶望的だ。私が女王の複製クローンだったとしても、ジェイシンス先生が、私を通して、誰か別の人の影を見ていたとしても……やっぱり、死にたくはないと思う。ずっと痛い思いをしながら生きてきたのに……)

 遺伝病とともに歩んだ人生に何の意味も見出せないまま死ぬのは、悔しい。

(……死にたくない)

 強風が吹くたび、エリファレットは身を縮こまらせて蔦にしがみついた。たとえその棘が手のひらに食い込もうとも、歯を食いしばって耐える。

(死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない――!)

 走馬灯のように頭をぎる、これまでの十六年間。馴れ親しんだ教室、同級生の顔、自室の机に置いた読みさしの本。図書館に満ちた埃と紙の匂い。そして最後に彼女の脳裏を移ろったのは、革靴に跳ねた春泥、軋む車輪の音――


 自分の顔を覗きこみ、涙をこぼした赤毛の男。


(……私、せんせいにあのときのこと、まだ謝れていない……)

 次の瞬間、手の中の蔦が灰になった。

 宙に投げ出されたエリファレットの目に映ったのは、丸い月の浮かぶ夜空。

 虚空にむかって手を伸ばす。しかし何も掴むことはできず、エリファレットは針葉樹林のむしろへと落ちていった。

 

◇ ◇ ◇


 ――グエナヴィア様、と誰かが耳元で囁いた。

「何故、突然そのようなことを? 何も企んでなどおりません」

「知っている、何もかも見透かしているんだよ、わたしくしは。たとえばお前は昔から私に片思いをしている。わたくしがお前の生家で扶育されていた時代から、今に至るまで」

「陛下はとても美しいから、皆が恋をしてしまうのです」

 胸に手を当てて、赤毛の男がこうべを垂れる。風が凪ぎ、薔薇のあでやかな匂いが周囲に満ち満ちた。

「ああ、薔薇の花びらが……」

 彼の手が、グエナヴィアの髪先に触れた。橙色の花びらを摘まんだ指は、偶然にも、白金色の毛髪を一本すくいあげた。

 人差し指に輪になって絡みついたそれを見下ろし、唇を噛むと、彼は「申し訳ありません」と小さな声で謝罪した。

「何を謝る」

「私は………とても罪深いことを考えております」

「ジェイシンス」

 女は赤い唇に笑みをたたえ、胸もとの鎖を握りしめた。そしてゆっくりとかぶりを振ると、続くはずだった男の言葉をさえぎった。

「許すよ、わたくしは。お前の犯すであろう罪のすべてを」

「陛下」

「わたくしがお前にできる唯一のことだ」

 指に絡みついた髪の毛を握りこみ、ジェイシンスは瞼を伏せる。その表情かおをじっと見つめると、「何をするんだ?」と穏やかな声で問いかけた。

「あなたの記憶を」

「わたくしの記憶を?」

「受け継がせる。サイラスくんはあなたと同じ胚を作って研究をしているが、治療そのものは間に合わないでしょう。私はそう踏んでいます」

「残酷なことを告げるものだな、お前は」

「だから、私は私のやり方で、あなたを生きながらえさせる。器を作り、記憶を移植するんです。特定の防御反応を覚えさせたアメフラシから、そうでないアメフラシに文字転写物質コンパイルを移植したところ、同じ防御反応を引き出すことができました。今すぐという訳にはいきませんが、じきに人間の記憶の移植も可能になります」

「馬鹿なことだ。それはわたくしでないよ、ジェイシンス」

「いいえ、あなたです」

 ジェイシンスは頑なに首を振る。

「私にとっては、あなただ。私に、あなたの死は……耐えきれないから……」

 グエナヴィアは笑った。深く垂れた男の頭を、赤子のような指で不器用に撫でると、そうか、と深くうなずいた。そして小さな声で囁く。


 許してやろう。

 お前が望むのなら。


◇ ◇ ◇

 

 薔薇の匂いがした。錯覚だと気付いたのは、エリファレットが瞼を開き、先の見えない射干玉ぬばたまの闇を目にしてからだった。

(ここは、どこ)

 自分は、生きているのか。

 あるいは――生き返ったのか。

 そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、エリファレットの視界が歪んだ。頭に、膨大な量の情報が雪崩れこむ。そのひとつひとつを認識する暇もないほどの勢いで、脳裏を混沌と様々な光景が移ろい、消えてはまた浮かぶ。玉座の上から、拝伏する侍従たちを見下ろす瞬間。腕に抱いた朝露に濡れた薔薇の重み。やわらかい寝台の上から、代わり映えすることのない天蓋の絵柄を眺めた途方もなく長い時間。

(……息が苦しい。意識が今にも散り散りになりそうだ。私は……私は……いったい、何をて……これは、私の記憶じゃない……)

 混乱の渦中にあって、ふと違和感を覚え、エリファレットは腐葉土の上でうずくまった。そして両手に渾身の力をめると、左胸に突き刺さった何かを抜く。感触からして、太い樹の枝であると知れた。体液がほとばしるが、痛みはない。

 灼けるような熱が心臓の中心から流れ出す感覚があった。

(何が起きているのか、まったくわからない……)

 ひどい頭痛と吐き気がとまらない。何度も深呼吸をして、体の状態が落ち着く頃には、汗に濡れた体が夜風に冷え、寒気を覚えた。

(――これは、グエナヴィア様の記憶?)

 記憶の錯綜が終わり、ようやく平常心を取り戻したエリファレットが導き出したのは、自分の中に『前女王の記憶』があるということだった。自分のものではない記憶を、実際に体験したかのように生々しく想起することができた。

 異様な状況の理由を求め、エリファレットが思い起こしたのはサイラスの言葉だ。ジェイシンスは鎮痛薬と称して、エリファレットに別のものを投与した。そして、『記憶』の中での、グエナヴィアに対するジェイシンスの説明――

(ジェイシンス先生は……私に……先代陛下の記憶を植え付けた?)

 目の端から、ほろりと滴が落ちた。理由もわからずそれを拭おうとして、次々と大粒の涙がこぼれてゆく。冷えた両手で目元を覆って、エリファレットは唇を噛む。

(そうか。だから)

 色んなことが腑に落ちた、どこか冷静な部分の自分が分析する。

 ジェイシンスがエリファレットを育て、手元に置こうとした理由。逃亡した本当の理由までも。涙を必死に拭いながら身を起こす。泣いている場合ではない、と何度も言い聞かせて。

 頭上を仰ぎ見て、状況を確認する。記憶がたしかなら、汽車から落ちたはずだ。エリファレットの身長の何倍もあろう糸杉が周囲を埋め、星のひとつ見えない。

 常闇の世界に、獣の遠吠えが響いた。

(まずはどうにかして、この状況を生き延びる手段を探さないといけない)

 悲しみから目を逸らすためにも、この状況に集中するべきだ。耳をますと、かすかに水の音が聞こえた。近場に沢があるようだ。

(沢づたいで道を探すのは遭難する可能性が高い。でも、頂上の方角もわからない……)

 崖から落ちてどれほどの時間がったのかは分からないが、夜が明けてから行動すべきだろうか。それでもし、臭いを辿って、獣が自分のもとへとやってきたら?

(誰かが探しに来てくれる可能性に賭けるしかない。でも、どうしたら……)

 いったい、誰が自分を助けてくれるのか? 

 悩んだ末に、エリファレットは手頃な樹を見つけると、その影に座り込んだ。

 小声で囁くと、閃光を放つ文字盤のサークルが何重にも少女を囲んだ。

 それらに目を走らせ、思案する。

(なるべく長く持つように、遺伝情報量が少ないことが最優先。できたら頑丈で、獣から逃げられるように、ある程度すばしこい……)

 選ばれたのは何の変哲もない、一匹のネズミだ。エリファレットの手を離れたそれは、迷うことなく暗い森にむかって駆け出した。

 それを見届けると、エリファレットは樹の幹に寄りかかった。

 深く息を吐き、脱力した。

(――グエナヴィア)

 もう永遠に失われたはずの影に、エリファレットは今にも溺れてしまいそうだ。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 考え事をしていたはずが、しばらく眠っていたらしい。エリファレットが目を覚ましたのは、目の前で枝を踏むかすかな音が響いた瞬間だった。

 地面をちょろちょろと走り、ネズミが手元に戻る。そして灰となって消失する。

 おとがいを上げると、カンテラの青い光が目に映った。眩しさに瞳を細めた少女の視界に映ったのは、黒衣姿の美青年だった。

「やっぱり」

 エリファレットは呟いた。

 ネズミが駈け回れば、エリファレットの魔術痕跡が周辺に散らばる。魔術師であれば、匂いを嗅ぎ分けるように、その持ち主を判別することが可能だ。

 エリファレットの複製元がグエナヴィアであるならば、その魔術痕跡も彼女と同じであろうと推測した。おそらく時計塔でサイラスが自分を助けに来たのも同様の理由だ。彼はどうやっても『彼女』を無視できないのだ。

(……生きたい。私はやっぱり、このまま無惨に死にたくはない。だから……)

 まさかグエナヴィアの記憶を植え付けられようとは思わなかった。心的ダメージが和らいだ訳ではない。だが、冷酷な人格の〝前女王〟が、皮肉にも彼女にある道筋を指し示した。「これ」を利用しない手はない。生き残るための手段は揃ったと。

 夜の森にひとり取り残されながら考えていたのは、これからのことだ。今の状況を打破し、薔薇鉄冠を得て遺伝病を治療する。当初の目的に変更はない。

(ジェイシンス先生も、この人も、みんな、前女王のことばかり。でも、だからこそ――私だからこそ、その思いを利用することができる。それが、私が生き残れる唯一の手段)

 自分は無力だ。魔術は十分に使えない。頭脳明晰なわけでも、体力に自信があるわけでもない。対するエグランタインは、『完璧な胚』だ。馬鹿正直に立ち向かったところで、勝ち目なんてあるはずがない。だから、策を練らなければいけない。

 そして目の前の男は、グエナヴィアに強烈な執着心を抱いている。これを利用しない手はない――樹の幹にもたれかかったまま、エリファレットはゆっくりと腕を伸ばした。

 サイラスにむかって。

「わたしを死のふちから救って」

 グエナヴィアは、どのような表情かおをして、彼に語りかけたのだろう。そんな思いが頭をぎった。今のエリファレットの顔には、笑みがあった。

「――陛下」

 見えない力によって、サイラスが跪いた。

 その顔に手を伸ばし、触れる。長い時間、森のなかを彷徨っていたのだろう。彼の頬は冷たかった。

「陛下……っ」

「サイラス」

 グエナヴィアと同じ顔で、同じ声で、彼を呼ぶ。散在する彼女の記憶をかき集め、繋ぎ合わせ、意識して、グエナヴィアのように振舞う。

 エリファレットが差し出した指に、サイラスの唇が恭しく触れた。そして、目の前の爪先を、熱い舌先で舐める。

 少女の指で口内を蹂躙されようとも、サイラスは拒まない。口から離した唾液にまみれた指を目の前の襯衣シャツで拭く。

すると、彼は喉を震わせながら、かすれる声を紡いだ。

「陛下……グエナヴィア様……今度こそ……今度こそ、俺は貴女を死の淵からお救いします……だから……そうしたら……」

 拝伏して自分の靴に縋る男を見下ろし、エリファレットは肩をすくめる。

「ちゃんとご褒美をあげます。でも、グエナヴィアと呼ぶのはやめていただけませんか」

 悩んだ末、「エリファレット」と口に出す。結局、それ以外の名前は思いつかなかった。

「ちゃんと呼べたら、あなたの女王様を演じてあげます」

「エリファレット」

「そう。感謝してください。あなたのために、私はグエナヴィア様を演じます。あなたのために――私を死の淵から救わせてあげます。それがあなたの望むことだとわかりましたので」

 サイラスは赤い瞳を泣きそうにゆがめると、深く首肯した。

 おもむろに脱いだ外套でエリファレットの体を包み込むと、横抱きにして立ち上がる。腰から提げたカンテラの光が照らした場所に、男の視線が向いた。

血のこびりついた、白い胸元に。

「失礼じゃないですか」

「……推論が裏付けられた。エリファレットの魔術配列は、損傷を負っているわけじゃない。不完全なだけだ」

 ぞんざいな話し方こそ変わらないが、その瞳には今までにない光が宿っている。陶然とした光。そして、蜜の滴るように甘いほほ笑み。

 「自分で歩けますが」というエリファレットの声を無視して、サイラスは夜の森を歩き始めた。

「エリファレットは、異常な遺伝子と正常な遺伝子が混在した胚だった。胚が分裂していく過程で異常な遺伝子が消滅したかと思ったが、実際は、先祖がえりを起こそうとして失敗したんだ」

「あなたと同じ?」

「同じようで違う。女王の始祖は古代種だが、古代種のなかでも特別な紋を持っていた。《アケイシャ》の原形だが、彼女が人間と交配したため、劣化し、今の紋になったと推測される。――それを本来の形に戻すことが必要だ」

 斜面を下りつづけ、やがて開けた場所に出た。

 空には丸い月が昇り、あたりを冴え冴えと冷たい光で照らしている。

「この広さなら収まるはずだ」

「……何をするんですか?」

「移動手段を確保する。《女王の死庭》に向かうにも、いまから麓に降りて馬を調達するのでは間に合わない」

 サイラスはエリファレットを地面に下ろすと、虚空にむかって右手を掲げた。

 その腕の表面で、漆黒の光が弾ける。

 無数の文字盤が彼の周囲に浮かぶ。それらに目を走らせ、膨大な量の文字列を指先で動かしながら、「なるべく小型、穏和で……」そうぶつぶつと呟いた。

 そして一定の文字列に目を留めると、うなずき、声を発した。

 サイラスにしてはずいぶん長い詠唱だった。夜の静寂に溶け落ちるやわらかな声が消えるとき、ふたりの前に出現したのは、一匹の竜だった。

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