夜汽車、ふたりの少女とふたりの男 Ⅳ

 差し出された毛髪が、エグランタイン自身のものでないことは明白だった。彼女の髪は男のように短いが、呆然とするサイラスに握らされたそれは長く、しっかりとした質量を感じさせる物だったのだから。

「お前が殺したのか?」

 呼吸が速く、浅くなる。長い沈黙を置いてようやくそれだけを問うと、エグランタインは「言いがかりはやめろよ」と眉間に皺を寄せて不快感を露わにする。

「俺だってそこまで馬鹿じゃねえよ。薔薇鉄冠の儀が始まるまで、女王の相続人同士は戦っちゃいけねえだろ。それを破ったら参加資格を失っちまうからな」

「ならば、何故。いくら考えても、あの娘が死ぬ理由が見当たらない」

「だから、不幸な事故だって言っただろ。人の話聞いてんのか? 動転した様子のあいつが廊下に見えたから、気になって話かけたんだよ。そしたら錯乱したもんだから、落ち着かせようと外のデッキまで連れてって……」

 自分で身投げした、とエグランタインは静かな声で告げる。

「俺だって助けようとした。結局、助けられたのは髪の毛くらいだったけどな」

「こんな場所で外にまで連れて行く馬鹿がいるか!?」

「うるせえな、反省してるって。でもさあ、あの娘……ずいぶん思い詰めてる様子だったぜ。サイラス、お前こそ何か心当たりがあるんじゃねえのか?」

 よく見知ったすみれ色の眸に睨み据えられ、サイラスは一瞬、口ごもる。

 耳障りな金属音とともに車体が軋み、汽車は夜の線路を疾走する。各コンパートメントの扉に吊るされた洋燈オイルランプがガチャガチャと揺れ、火の影が板張りの通路の上を不規則に移ろった。

 その床に伸びたサイラスの影を踏んで、「あるんだろ?」と確信に満ちた声でエグランタインは問いを重ねた。それでも無反応な男に対し、首をすくめる。

 彼女は危なげなく革の長靴ちょうかを鳴らし、不安定な通路を進んだ。

「エリファレットに、グエナヴィアを重ねていたんだろ?」

 棒立ちになるサイラスの至近距離に立ち、その顔を下から覗き込むと、彼女は口端を上げてみせた。

 年頃の娘らしい甘やかさはなく、どこか獣じみた、挑むような笑い方だった。

「似ているから仕方ないって? 嘘うそ、隅々まで似通うように作ったのはお前だろ? エリファレットを、俺を。俺たちは、グエナヴィアに心酔した男たちにとって、美しい過去を想起するための装置でしかない」

 それがどういうことかわかるか? とエグランタインは問いかけた。

 かき上げようとした長い前髪をきつく掴む。その整った形容の白い指先が、言葉を紡ごうとする喉が、震えている。

「生きながらに搾取されるということだ。俺たち個人を尊重すると言いながら、女王グエナヴィアのまがい物として消費される以外に、その価値を見出してもらえないんだから。なあ――〝パパ〟?」

 老婆のように醜く枯れた彼女の声が、サイラスの耳朶に絡みついた。

 エグランタインの声は、言葉は、呪詛に他ならない。自分を創造した相手に向けた、明確な敵意と憎しみだ。

「俺は複製クローンじゃなく、無作為に選ばれた男の遺伝子も受け継いでいる。だが、母親にそっくりだ。俺はグエナヴィアの理想形だったんだんだろう? ――気持ち悪いよな、本当に。特に、俺の声が、グエナヴィアに瓜二つだと言われ続けて……」

 「十三歳の誕生日に毒を飲んだ」そう言って笑みを深める彼女の表情かおには、深い陰影を帯びていた。

「俺はグエナヴィアにはならない」

 甲高く長靴ちょうかの踵を鳴らし、彼女は身を翻した。

「……知っている」

「わかっちゃいねえさ、何ひとつな!」

 振り返って、エグランタインは絶叫する。

「感傷なんて糞食らえだ! 全員、グエナヴィアの影でみっともなく死んでいけばいい! ナサニエルも、お前も、グエナヴィアに心酔した奴、一人として残らず! 俺は知らない。そんな連中には報いない。――俺はエグランタインとして生き、女王になる!」

 怒りに満ち満ちた彼女の声は震え、低く掠れていた。

(何を言っている。当たり前の話だ。こいつはグエナヴィア様じゃない。グエナヴィア様はもうどこにもいない。俺が帰らぬうちに死んだ。俺を待っていてくださると言ったのに、死んでしまった。誰にもあの方の代わりなどできないのは当然だ)

 反論の言葉はいくらでも沸いて出た。しかしどうしてか目の前の少女にかけるべき言葉は思い当たらず、サイラスは無言になるしかなかった。

 胚の凍結期間が一年。代理母に引き渡され、彼女が生まれてから十六年。

 その間、サイラスは不在だった。エグランタインが送った人生を、垣間見ることさえなかった。帰還したのは三周忌の直前。彼女は育ち切っていた。

 しかし漠然と、彼女のこれまでは幸福に包まれていたのではないかと思っていた。エグランタインは女王家系を苦しめる悪しき遺伝病を克服できた、唯一の胚だ。彼女の創出に成功したとき、この娘は一生未来を案ずる必要がないと本気で思った。

(十七年…………)

 遠ざかってゆく背が、やがて闇の中に消える。

 サイラスは冷えた手を額に当てて、小さく息を吐いた。

 歳月を経て、故郷くにに帰還したサイラスを出迎えたのは、十七年前とはまったく異なる社会だった。何よりも、一生尽くすと決めた主君が失われていた。

 サイラスにとって、グエナヴィアはすべてだった。

 幼い彼の命を救い、生きる目的を与えた。

 彼女を死の淵から救うこと、それだけが生きる意味だと思っていた。

「サイラス」

 肩に触れる手があった。呼び声にも振り返らず、サイラスはかぶりを振る。

「すまないね。君にうちの娘が迷惑をかけているのは見ていたんだが、出て行くタイミングをはかりかねて。気を悪くしたならすまないよ。言って聞かせようとはするんだが、どうにも利かん気なお転婆でね……」

 ナサニエルの声に温度はなく、芝居がかった無機質さがあった。

「あの娘のことは残念だったね。次の駅で馬を走らせて遺体を捜索させなければ。でもこれで、私たちの関係に割り込むものもなくなった。ようやく君とゆっくり話せる機会を持てるというものだ……あちらはどうだった? 《門の島》は良いところだったか?」

「……まさか」

「むこうはこちらと時の流れが違うようだね」

 俯き、床をじっと見つめたまま、サイラスは「そうだ」と平坦な声で応えた。

「こちらでは一日足らずの時間が、何百、何千……何万年にも感じられた。時間が停留していたせいで、年を取っていないように見えるだけで……。その間、正気を保っていることができたのは、グエナヴィア様の命があったからだ……」

 今の自分は抜け殻だ、とサイラスは思った。主君は失われ、彼女の複製クローンさえも手元を去った。

 もともと、生体干渉魔術はアケイシャの国教を束ねる使徒教会からの反発が強かったがために、凍結された研究だった。それを掘り起こしたのがサイラス、共同研究者のジェイシンスだった。

 しかし教会の密偵によって研究成果が暴かれ、ふたりは窮地に追い込まれた。ジェイシンスは失職し、サイラスには王命が下った。《門の島》へ向かいなさい、と。

 《門の島》はあらゆる魔術の根源であり、遺伝情報の図書館ライブラリーでもある。四種の文字スペルを持って生まれた男は、いにしえにアケイシャを去った古代種と同様、その場所に渡る資格があった。

「俺に罪の意識などなかった。俺はあの人を救うのに必死で、そのために伯爵の研究を引き継いだ。彼女の複製を作成しようとしたのも、遺伝病を克服する実験のためだった。生かすつもりなどなく、本当に、破棄したはずだった……」

「そのことなんだがね。実は、彼女の胚は先代陛下が持ち出されたのだよ」

 彼女のご遺志だ、とナサニエルは淡々と喋る。サイラスは瞠目した。

(陛下のご意向で?)

 その一瞬、凍り付いた彼の心臓に――熱い血がかよった。心の臓を回った血液が全身に行き渡り、グエナヴィアの死後霞みがかっていた視界を晴れやかにした。

「保険のためだ。万が一、エグランタインが死ぬことがあってもいいように。慎重なあの方らしいと思わないかい……サイラス?」

 ナサニエルの腕を振り払うと、サイラスは歩き始めた。

「どこへ行く?」

「次の駅で降りる」

「何故そのようなことを? 馬を走らせるなら手紙を書けばいい」

「あの娘を探す。あの娘を生かしたのが陛下のご遺志ならば、それを尊重しなければいけない」

「この標高だ、彼女がどこに落ちたかも知れん。すぐに見つかるはずがないし、きっと遺体はバラバラだ。大規模な捜索が必要になるだろう」

「死んだと決まったわけじゃない。それならなおのこと、彼女を死の淵から救わないといけない」

「冷静になれ、サイラス。列車から落ちて生きているはずがないだろう!」

「それでも俺は諦められない! グエナヴィア様とまったく同じ顔をした娘を! ――俺はあの方を二度見捨てることになる!」

 強い力で白金色の毛髪を握りしめ、サイラスは低い声で囁いた。

 門の島では、常に狂気との闘いだった。あるいは、もうとっくに自分は正気を失ったのかもしれない。彼の精神を支え、繋ぎとめたのは、幼い頃、自分に向かって差し出された娘の手のひら。その温もりと、力強さ。そして――


 『死の淵からわたくしを救いなさい』という命令だった。


 グエナヴィアの命令は、サイラスの今にもばらばらに砕け散りそうな肉体を、精神を、唯一の形にするものだ。彼女だけの言葉が、声が、まなざしが、自分の心臓を沸騰させる。生きる意味を与え、はっきりとした道筋を明るい光で照らす。

 不測の事態で生き延びたエリファレットは、十代の頃の彼女とまったく同じ容姿と声をしていた。あの娘を見捨てることは、グエナヴィアを二度殺すことと等しい。消極的な選択として、手を差し伸べるほかなかった。

 しかし、エリファレットが生きていたことが、そもそもグエナヴィアの遺志であるならば――

(……陛下は、もしや俺のために彼女を遺された?)

 天啓がごとくその考えがサイラスの頭に閃くと、もはや彼は衝動を抑えきれない。

「あれはグエナヴィア様じゃないぞ、サイラス!」

「――承知している。だが、グエナヴィア様でもある」

 振り返って、サイラスはナサニエルを睨みつけた。

「そう思わなければ――俺は生きていけない」

 両腕を広げ、ナサニエルはかぶりを振った。

「生命への冒涜だ」

「かまわない。あれを俺の女王陛下にする」

 感動に打ち震える胸を押さえ、サイラスは真顔で答えた。

 黒衣の裾を翻すと、今度こそ、男は暗闇にむかって突き進む。


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