ガーデニア Ⅳ

 


 外は薄暮の青色に包まれ、穏やかな風が吹いていた。 

 マロニエの葉がこすれ合い、ざわざわと耳もとで微かな音を響かせる。しっかりとした太い樹木の枝に腰かけ、その幹に寄りかかりながら、エリファレットは物思いにふけるように眼下に広がる苔とシダの道を眺めていた。

 そして自分を呼ぶ声に気付くと、のろのろと顔を上げたのだった。

「ここにいたんだね、エリファレット。さあ、降りておいでなさい」

 樹の根元にまで駆け寄ったのはジェイシンスだ。息が切れ、色素の薄い肌はほのかに赤らんでいる。

 「ほら」と両腕を広げた男にむかって、エリファレットは無言で飛び降りた。

「よしよし、もう大丈夫だからね。サイラスにも帰ってもらったよ。嫌なことをいっぱい言われて、不愉快な思いをたくさんしてしまったね」

 同年代の少女たちと比べて些か発育不良のきらいが見られるエリファレットは、すっぽりと彼の腕のなかに収まってしまった。

 さらに優しく抱擁され、幼子にするように頭を撫でられる。

 それがむず痒く、エリファレットはしかめ面のままかぶりを振った。

「子どもではないので大丈夫です。すこし驚いただけですから……」

 そうかな? とばかりに首を傾げたジェイシンスに、深く深く首肯する。

 なおも心配そうな彼に対しこれみよがしに溜息をこぼす。しかし良い機会だとも思い、エリファレットは樹上で考えていたことを口にした。

「先生は、私が……女王の血を引いているって、はじめから知っていたんですか?」

 穏やかな風に、雑に束ねた癖のある赤毛がたなびく。

 緑色の目をすがめ――ひどく懐かしいものをみつめるように――ジェイシンスはゆっくりとうなずいた。

「うん。知っていたよ。君を拾って、すぐにわかった」

 若くして宮廷魔術師の地位を退いたジェイシンスは、この美しい湖水地方に、魔術の研究機関と子女の教育機関を兼ねた学園ガーデニアを開いた。

 彼自身は歴史ある伯爵家の出身だが、もっとも力を入れたのは、戦災孤児や育児放棄された子など、教育の機会さえも奪われた子どもたちを援助すること。生体干渉魔術の応用分野の研究者としてだけでなく、慈善家としても名が通っている。

「私は君に一度も魔術を使うことを許してこなかった。そのせいで、君が落ちこぼれ扱いされているのも知っているよ。それは、魔術配列が損傷しているからという理由だけでなく、君が《アケイシャ》を持っていたから。――それを知ったとき、私はどうしても君を王城に連れて行く気にはなれなかった」

「どうしてですか?」

「複雑な事情があって、追い出されてしまったけど――宮廷魔術師として先代陛下にお仕えして、私があの御方について理解できたことはそう多くなかった。けれども……あの御方は常に孤独だった。誰よりも。それは確かだろうと思っていてね。

 私は、君を通して、先代陛下が幸せになる夢を見てみたかった」

 「幻滅した?」と眉尻を下げて問う学園長を前に、エリファレットは、間髪入れず「いいえ」と否定した。

 これまでの十六年間に思いを馳せてみても、ジェイシンスは、誰に対してもそうだが――献身的な性格の持ち主だった。エリファレットも、幼い頃から世話になった。厄介な病気を持つ自分を、時に寝ずに看病し、緩和ケアを施し、勇気づけてくれたのも彼だ。

「どうして幻滅するのかわかりません。先生は、私にとっては育ての親も同然です。どんな子に対しても分け隔てなく接して、同じように優しくできるのは、すごいことだと思います」

 まっすぐにジェイシンスの両目を見つめるエリファレットに迷いはない。

 眼鏡の奥で目を細めると、「そっかあ」とジェイシンスは目尻を和らげた。

「それなら、よかった。生きてた甲斐があったよ」

 そう冗談めかした調子で言うと、エリファレットの肩を叩き、「そろそろ夕食の時間だから、寮に戻りなさい」と促した。エリファレットは素直にうなずき、寮のある方角にむかって歩き始めようとしたところで、ふと彼を振り返った。

 彼女の不安を感じ取ったように、ジェイシンスは微笑む。

「大丈夫。何も心配することはないよ。サイラスはああ言っていたけど、君のことは、これまでどおり全身全霊の力をかけて私が守るよ。いつもと同じ日々が続くだけだからね、エリファレット。――安心して」

 ジェイシンスは魔法のようにエリファレットの不安を取り除いてしまう。それが祈りをこめた言葉だったことを、彼女はまだ知る由もなかった。


 ◇ ◇ ◇


 明くる日。

 授業の開始を知らせる鐘が鳴ると、それまで実験室のあちこちで聞こえていた少女たちのお喋りが消えた。揃いの制服に身を包んだ娘たちは、作業用の長机の前に整然と並び、魔術実践学の教師を待つ。

 エリファレットだけはその輪に加わらず、教室後方の隅に置かれた椅子にそっと腰かけた。

 エリファレットは優秀な生徒だ。すくなくとも座学においては、定期試験で首席の座を譲ったことはない。しかし、魔術の実技に参加させてもらえたことも、ただの一度もなかった。彼女に魔術を使わせないよう、学園長が教師陣にきつく言い付けているからだった。

 魔術の実技が開始される中等部の頃は、そのことをからかったり、今は彼女を空気同然に扱っていた。将来的に魔術師たることを目的とする《ガーデニア》では、どんなに勉強ができようとも魔術の実技ができない生徒は去るしかないが――なおもこの学園に居座るエリファレットを、他の生徒は常にその輪から排除していたが。

「今日はビンのなかに花を咲かせてみましょう」

 教壇に立つ若い女性教師が配り始めたのは、形や大きさの様々なガラス壜だ。

「なるべく大きいほうが得点が高いですが、無理せず自分の能力に見合ったものを選んでくださいね。壜にぴったり収まるように、自分の文字スペルに合致する花を咲かせるのが課題です。早く、かつとびきり美しい花を咲かせた人が今日の優秀賞ですよ」

 教師のことばに少女たちは各々好きな壜を選び、蓋を開けて天地をひっくり返すと作業台の上に置く。

 そしてそれぞれ服の右袖をめくると、小さな声で詠唱をつむぎ始めた。

 魔術の始動キーは、誰しも同じ言葉を使う。

 同級生たちの腕に閃光が走り、弾ける。

 やがて彼女たちの周囲に、何重もの輪が浮かび上がった。輪を成すのは、豆粒大に文字スペル化された膨大な量の遺伝情報だ。この文字スペルは各個人の魔術配列に組み込まれた二種の文字スペルと一致し、ここから任意の遺伝情報を選び、読み上げることで召喚の対象を指定する。

 魔術とは異界とされる「門の島」に接続することで引き起こされる現象だ。太古にこの地を去った古代種が行き着いたとされる場所で、この世界ではない次元に存在する。そしてこの次元から見ると、門の島は、古代種が使う言語――四種の文字スペルによってコード化された膨大な遺伝情報の坩堝るつぼである。

 これを翻訳するのが魔術配列を構成する文字スペルとその配列であり、物質として実世界に持ち込むのが魔術師の能力だ。門の島とはある種の図書館ライブラリーのようなもの――あらゆる生体情報を保管し、蓄積する場所――そして魔術師とはその図書館に入館できる権利を得たもの――魔術配列とは、借りることのできる図書の種類を定めたものと一般には説明される。

 どの文字スペルの組み合わせを持つかは個人に依拠し、そのなかでも決まった配列になった者だけが、門の島に接続する権利を得る。

 自分のもつ二種の文字スペルで読み解くことのできる遺伝情報を検索し、この世界に顕現させる。優れた魔術師とは、情報を検索して処理し、実世界に再現させるまでの工数が少ない者のことだ。

 ほどなくして、作業台に置かれたビンのなかに花が咲き始める。枯れかけのもの、半分ほどしか顕現していないもの、色がないものなど、完璧な花を再現できている生徒は片手で数えられる程度しかいない。その様子を眺めながら、エリファレットは自身の右手首を袖の上からなぞった。

(《アケイシャ》を隠すためだとはわかったけれども……)

 女王家系は強大な魔術師でもあると聞いたことがある。それが事実なら、自分は魔術を使うことができるのではないか――? 

 興味本位で使われていない壜に手を伸ばしたその瞬間、

「――エリファレット!」

 足音――そして悲鳴に近いジェイシンスの呼び声が、実験室の外から響いた。

 エリファレットは壜を落とし、爪弾かれたかのように廊下に飛び出した。ほとんど衝突するように自分の両肩を掴んだジェイシンスが、「逃げなさい」と切羽詰まった様子で囁く。呆気にとられる彼女の手を取ると、学園長は駆け出した。実験室のある別棟の裏口を出たところで、外から強い風が吹きつけた。

 穏やかな春の日差しに照らされた庭に、屈強な男集団が見えた。いずれも紫紺の外套をはためかせ、灰色の軍衣を身につけている。その胸もとで煌めく徽章に刻まれた紋様は炎をまとうサラマンダー。

「……神聖王国騎士団。女王近衛部隊だね。ずっと形骸化して腐敗の温床になっていたけど、先代陛下が対魔術師戦に特化した集団として立て直したんだ」

 ジェイシンスはそう説明しながら、エリファレットを庇うように前に立った。すると強面の男の集団から、ひとりの精悍な軍人が踏み出した。

「懐かしい顔だな、ジェイシンス。そしてそちらが、件のお嬢さんか。――エグランタインには劣るが、美人だな?」

 三十代半ばほどの美丈夫だ。彼は小奇麗に整えた顎髭をさすり、不敵に笑う。

「ナサニエル卿。まさか、軍の要職であるアエルフリク侯爵殿が直々にお出ましになるとは予想もしていませんでしたよ」

「普段はこうも泥臭い仕事はしないものだが、今回は事情が事情だ。先代陛下のご落胤とあれば、それなりの地位の者が直々にお迎えに上がるべきだろう?」

 上背の高く、がっしりとした体つきのナサニエルは前傾姿勢をとると、腰に佩いた長剣に手をかけてみせた。

「ヘウルウェン伯爵の息子、ジェイシンス。先代陛下を偲ぶ者のひとりとして、このまま穏やかな日々を過ごさせてやりたかったが‥…こう言うしかあるまい。命が惜しければ、そのお嬢さんをこちらに渡せ。彼女は相続人のひとりとして、薔薇鉄冠の儀に参加しなければならない」

「そしてお宅のお嬢さんに殺されるまでが貴殿の筋書きですね」

 ジェイシンスはエリファレットを振り返ると、悪戯っぽく片目を瞑った。

 そして後ろ手で紙束を握らせ、「逃げて」と一言だけ伝える。一瞬だけ触れたあたたかな手がほどくと、ジェイシンスは右袖を捲り、声を張り上げた。

――」

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