少年は違和感を感じた
「アイラスは絵が描けるんだ!?」
簡単に説明すると、五親王は嬉しそうに食いついてきた。その顔を見た時点で、軽く後悔していた。
アイラスの描く絵は上手いと思うけれど、それは絵心のない自分から見てでしかない。皇帝に献上できるほどかどうか、到底判断できなかった。
――じゃあ否定する?
悩み始めると返答ができなかった。せっかく見返りとなりそうなネタを見つけたのに、それを自分の拙い目でふいにするのはどうだろう。
でも引き受けるとなると、アイラスに負担が掛かりはしないだろうか。
迷っていると、五親王が乗り出した身を戻した。少し残念そうに言った。
「ごめん、期待かけすぎちゃったかな。十歳だっけ? こんな小さな子に責任を押し付けちゃ、ダメだよねえ」
「……アイラスは、ただの幼子ではない!」
今度はトールが立ち上がり、身を乗り出して叫んだ。でも全員が彼を振り返ると、少し怖気づいていた。
「ア、アイラスは……高名な、画家の弟子であったし……基礎はしっかり、学んでおる……はずじゃ」
言いながら、トールの声はどんどん小さくなっていった。どっちなんだよと内心突っ込んだ。そうならそうで、もう少し自信を持って言って欲しい。
「……師の絵仕事を手伝っておったし、自身も依頼を受けて、絵を描いて……そうじゃ! ロムも見たであろう?」
「えっ」
いきなり話を振られて驚いた。見た事がある彼女の絵は、一枚しかない。
「女の人の絵? あれ、依頼されて描いてたの?」
「そうじゃ。ただ、今となっては報酬を貰えるかどうか、わからんがの……」
「気に入ってもらえなかったの?」
「そうではない! 絵の出来とは関係ないところで、ちと……問題が、起きての……」
言いにくそうに口ごもった。トールは最近こういう事が多い。
あの絵は彼らが倒れていた時、絵が見つかった時から、ほとんど変わってないように思う。
最初から完成品に見えたのに削り取ったり、無報酬なのに完成させようとしたり。
今はその絵を放置して東方に来ている。まあそれは、資料だというペンダントが手元に無いからかもしれないけれど。
とにかく、何の目的で誰のために描いているのか。矛盾が多すぎて、どこから突っ込んでいいのかわからなかった。
「よし! じゃあ、ちょっと描いてもらおっか」
「……えっ」
「上手いのが描けたら、明日文書と一緒に出してみよう」
五親王は立ち上がって、部屋の外に向かって大声で叫んだ。
「紙と筆を持て!」
バタバタと慌ただしい足音が聞こえた。今から描かせる気だ。急展開に驚いた。
「あ、描くのは俺の顔ね? ふふ……あいつ、羨ましがるぞ〜」
五親王は、聞いてもいない皇帝の西洋かぶれについて、アイラスに一方的に語り始めた。西洋画家専用の画廊もあるらしい。
その言い方は、バカにしているようでいて嬉しそうだった。仲がいいのかなと思う。僧侶がこの人を薦めてきたのも、少しわかる気がした。
「な、何? 何て言ってるノ?」
勢いに押されたアイラスが、助けを求めるように服の裾を引っ張ってきた。
「五親王、落ち着いて下さい。アイラスは言葉……」
「あ、そうだった。ごめんごめん。ああそれと、俺の事はホンジョウでいいよ。君達は家臣じゃなくて客人だからね」
「では、ホンジョウ様。アイラスに聞いて……」
「敬称は要らない。君らの国では知らないけど、この国では、名前だけで呼ぶのは不尊ではなく親しさの証だ。俺もそう呼ばせてもらうからね?」
「わ、わかりました……」
いちいちセリフを遮って、マイペースな人だなぁと呆れた。
とにかくアイラスには、皇帝が見返りを求めるかもしれない事、それには西洋絵画が有効である事、ついでに五親王の事はホンジョウと呼ぶ事を伝えた。
「どう? 描けそう? アイラスが使ってたのと同じような道具が、画廊にあるらしいよ。そこに西洋人……つまり、言葉が通じる画家も居るみたい」
難しい顔でうつむいていたアイラスが、最後の言葉で顔を上げた。
「ホント!?」
「うん、ホンジョウがそう言ってる」
「……やる! とりあえず、描いてみる! 見せてみないと、皇帝の目に叶うかどうか、わかんないもんネ」
自信満々に笑うアイラスを見て、ホンジョウも満足そうに笑った。
程なく、使用人が紙と硯箱を持ってきて、食器が下げられた食卓に並べた。
「エッ。今から描くノ?」
アイラスは心配そうに外を見た。すでに空は夕焼けに染まっている。ロムも同じ心配をしていた。
「すみません。俺達、まだ今夜の宿も決めてないから、そろそろ……」
「うちに泊まるんでしょ? そう頼まれたし」
僧侶からの手紙を持ち上げて、ホンジョウが驚いたように言った。目が、知らなかったの? と言うように見開かれている。
小さな舌打ちの音が聞こえた。誰なのか確認しなくてもわかった。
あの寺に泊まるよう誘われたけれど、断る事はわかっていたという事になる。手の平の上で踊らされたような気分だった。
とにかく、オロオロしているアイラスに説明した。
話を聞いて、彼女は頷いて硯箱を開けた。
開けてまた、オロオロした。豪華な彫りの硯箱には、綺麗な道具が一式入っていた。
彼女は硯を重そうに持ちあげて取り出し、固形墨を手に取った。硯に触れてみたり、離してみたりしている。
クロンメルでは煤と油を混ぜたインクを使っている。墨を摩る方法は、よく知らないように見えた。
「俺がやるよ」
アイラスと場所を代わって、硯に少しの水を入れた。
静かに墨を磨り始めると、横からしげしげと覗き込まれた。その顔は少し嬉しそうに見えた。
こんな作業のどこが面白いんだろう。そう思ったけれど、知らない文化を見るのは楽しいかもしれない。
彼女の記憶にある世界は、一体どんな文化様式なんだろう。全く別の世界となると、想像すらできなかった。
でもアールヴヘイムで眠る原初の魔法使いは、自分達と変わらない人の形をしていた。同じ姿なら、生活もそんなに違わないのかなと思う。
ただ、何か一つだけ、彼女には自分と同じ習慣があった気がした。
——あれ?
一瞬、墓の前で両手を合わせるアイラスの姿が浮かんだ。墓に祈りを捧げる風習はシンや帝国、つまりこの地域独特のものだ。
それ以前に、彼女と一緒に墓場に行った事なんて、一度も無いはずだった。
墨を磨る規則的な音と振動が、酷く頭に響いた。周りが無音になって、その音だけが強く聞こえていた。
何かが変だ、おかしいと、誰かが叫んでいる。
こんな事は初めてだ。いや、前にもあった。確かな違和感を感じた。何度も。いつ? 最近?
「……れてるね」
ホンジョウの声に、ハッと我に返った。周りの音も戻ってきた。硯に溜まった水は、十分に濃くなっていた。
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