少年の絶望と希望

「アイ……ラス……?」


 偶然なのか必然なのか、刃は左側の肋骨三番目と四番目の間に入っていた。その先に心臓があり、貫かれたら三秒で死ぬ。その事はロムの頭に叩き込まれていた。


 今、何秒経った? どうすれば助かる?


 ——無理だ。無駄だ。


 もう間に合わない。心臓が止まり、魂が旅立ってしまったら二度と戻らない。どんな偉大な魔法使いにだって無理だ。

 心とは裏腹に、ロムは現実を理解していた。




 口から血を流し、崩れ落ちるアイラスを受け止めた。すでに命の灯は消えていた。彼女の目は半開きになったまま止まっていた。震える手でその瞼を閉じさせて、彼女の頭を抱えこむように抱きしめた。涙は止まらなかった。


 アイラスは、もう動かない。もう笑わない。なぜ。どうして。一緒に死のうと思ったのに、彼女だけ死んで、自分はまだ生きている。


 幸せそうと言われたのは、昨日の事だったか。

 でも幸せは求めてはいけなかった。数えきれないくらいの命を奪った自分に、幸せになる資格はなかった。だからこんな事になったんだ。その呪いにアイラスを巻き込んだ。




 彼女の胸に刺さった刀を見た。アイラスの手を離れ、今は力を失っているようだった。

 なんなんだ、この刀は。このせいでアイラスが死んだ。

 いや、違う。自分がこの刀に興味を持ったせいだ。アイラスはそれを止めようとして刀にとりつかれた。




 ——俺の、せいだ。




 刀に手を伸ばした。


「触るな!」


 ザラムの鋭い声に、ロムは動きを止めた。


「捕らわれる。離れろ」


 そんな事、もうどうでもよかった。自分の意識が消えてしまうなら、その方が楽になれる。

 再び刀に手を伸ばした。その手首をザラムが掴んだ。


「諦めるな」

「……え?」

「トール、諦めてない」


 ザラムが向いた方向を見ると、トールが両膝をついて手を前に突き出し、目を閉じて何かを一心不乱に呟いていた。


「魂、捕らえている」




 理屈はわからなかった。でも彼らが諦めていない事だけはわかった。急に冷静になった。


「どうすればいいの?」

「身体、治す。魂、戻す」

「それならまず、刀を抜かないと。刀に触れないのに、どうすれば……」

「人以外、捕らわれない」

「それって……使い魔ならいいの? トールは今、動けそうにないけど」


 そこまで言って、トールの後方に横たわるリンドを見た。彼女は気絶していたが、ニーナの使い魔を呼びに行く時間はないだろう。今は彼女しか居なかった。


 アイラスの身体を横向きに寝かし、リンドに駆け寄った。抱き起し、揺さぶった。


「起きて、お願い! 今、刀を抜けるのは、リンドしか居ないんだ!」

「どうしたんだ? アイラスは?」


 テントの支柱の下敷きになったままのレヴィが声を掛けてきて、ロムは横たわったアイラスを振り返った。身体を無理にひねって、目を向けたレヴィが震えるのがわかった。


「嘘だろ……」

「まだ死んだわけじゃない! トールが魂を捕まえてる。刀を抜かなきゃいけない。人では触れないんだ。使い魔の手が必要。リンド、起きて!」

「……俺がやる。こいつをどかしてくれ」

「人だとダメなんだ! 刀にとりつかれる!」

「いいから急げ! トールの魔力が尽きる!」


 まだ躊躇しているロムの前に、ザラムがやってきた。手探りで、レヴィをいましめている支柱を見つけた。


「手伝え」

「でもそれだと、今度はレヴィが……」

「こいつ、人違う」


 耳を疑った。人でないなら何なんだ。


「早くしろ! そいつを起こしたって、抜く力はねえだろうが!」


 レヴィに怒鳴りつけられ、今はそれを考える余裕はないと気が付いた。起きないリンドも心配だったが、とりあえず草むらに寝かせて、試合用の剣を拾ってきた。てこの原理で支柱をわずかに持ち上げた。


 レヴィが足を無理に引っこ抜いた。皮膚が裂けて血が流れたが、構わずその足を引きずってアイラスに近づいた。ザラムがそれを追いかけて、ロムも遅れて後を追った。




「準備はいいか? 抜くぞ?」

「いつでも」


 レヴィが刀の柄を掴み、そのまま引き抜いた。すかさず、ザラムが癒しの魔法を使った。アイラスの傷口がふさがったのを確認して、彼はトールに向かって叫んだ。


「戻せ!」


 トールが目を開けて、それまで呟き続けていたものとは別の言葉を紡ぎだした。


 アイラスの髪と服がふわりと風を受けて膨らみ、またすぐ元に戻った。恐る恐る顔をのぞきこむと、血色が戻っている。そっと首筋に指を当てると、脈が伝わってきた。


「……良かっ……た……」




 冷たい地面の上が可哀そうで、アイラスの背中に手を回して抱き上げ、しゃがんだ膝の上に乗せた。胸を合わせて抱きしめると、確かな鼓動が伝わってきた。首筋に顔をうずめて匂いを嗅ぐと、涙が出るほど安堵した。


「刀が刺さったままだったから、血もそれほど流れてねえし、体温も下がってねえ。もう心配ねえだろ」


 言いながらレヴィは、鞘を拾って刀をおさめた。


「しかし、なんなんだこの刀。危なっかしいな……」

「妖刀ムラマサ」


 ザラムが呟くように言った。その名前には、ロムも聞き覚えがあった。


「なんだそりゃ?」

「人を恨んで死んだ魔法使いの呪いが掛かっている。持つ者が死ぬまで狂気に走らせる……」

「ロム、知ってたのか」

「噂だけは……見たのは初めて」

「シンの物か?」

「うん……」

「俺には、ただの刀に見えるけどな……」

「人、近づく、目覚める」

「俺が、近づいたから……アイラスはそれに気づいて、止めてくれたんだ。……なんでこんな刀が混じってたんだろう……」




「それは私が処分しておくわ」


 振り返ると、ニーナとホークが立っていた。周囲では、大会の運営にかかわる人々が戻ってきていて、壊れたテントや散乱した武具を片付けていた。

 観客は戻っておらず、閉会式どころではなくなっていたが、今のロムにはどうでもいい事だった。


「遅い。今まで何をしておった?」

「ちょっと厄介なことが起きてね。手が離せなかったの。……すでに片付けたから、気にしないで。レヴィ、刀を持って来て頂戴」


 レヴィが、足を引きずりながら歩き始めた。


「待て」


 ザラムがレヴィの足元にしゃがみこんだ。傷だらけで腫れあがった足に触れ、癒しの魔法を唱えた。


「悪かった……」

「お前は悪くないだろ。むしろ、おかげでアイラスが助かった。ありがとな」

「……違う、お前の、正体」

「ああ……お前じゃねえよ。俺が自分で言ったんだ。気にするな」

「私からも、礼を言うわ。あなたが居なければ、アイラスは助からなかった」


 優しい口調と聖母のような笑顔で言われ、ザラムは困ったような顔で首を横に振った。




「トール」


 一転して、ニーナが強い口調で言った。リンドを抱き起こしていたトールは、怪訝な顔を上げた。


「あの子とレヴィが居なければ、アイラスは助からなかった。運が良かったという事を理解しておいて。……私なら一人でも助けられた。私とあなたの違いは何かしら?」


 トールはうつむいて、返事をしなかった。


「あなたが否定しているのは、多くを助ける力なのよ。今後どうするか、一番大切な事は何なのか、よく考える事ね」


 そう言ってニーナは、冷たく踵を返した。トールに対するそんな態度は、初めて見るものだった。

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