少年は学校へ行った

 翌朝早く、いつものように素振りと打ち方の練習をしていた。練習相手が欲しいと思わなくはない。でも、同じ年頃の子では相手にならないし、子供のロムを相手にしてくれる大人も居ない。だから1人でやるしかない。


 昔に比べて腕が落ちていないか気になったが、昔と違って危険な事などしないのだから、別にいいかとも思う。


 ふと、視線を感じて振り返ると、アイラスとトールがベランダから見ていた。自分が振り返ったので、アイラスが手を振ってきた。ロムも手を振り返した。

 彼らが起きてきたということは、そろそろ朝ご飯の時間かもしれない。今日は曇っていて、時間がよくわからなかった。急いで道具を片付けて、宿舎の中に入った。




 部屋の前まで戻って来ると、アイラスとトールが待っていた。

 トールは猫の姿になっていた。それは、話す事は何もないと言われている気がした。彼は昨夜あの後も、今朝も何も言ってこない。追及されたらどうしようと思っていたけれど、何も言ってこない。

 それは安心なようであり不安なようであり、自分の気持ちがよくわからなかった。ただ、トールは何でも話してくれるのに、自分は隠し事をしているという罪悪感だけは、確かにあった。


「ロム! オハ、ヨウ!」


 アイラスが、たどたどしく挨拶した。


「おはよう」


 昨夜の様子を思い出して、その手を取った。鼻を寄せて、臭いが残ってない事を確認した。


「よかった……臭い、取れてるみたい」


 そう言って彼女を見ると、顔を真っ赤にして硬直していた。慌てて手を離した。


「ごめん! そんなつもりじゃ……ほら! 昨日、俺、吐いたから! だから、えっと……」


 通じない言葉で言っても仕方ないのに、しどろもどろで言い訳した。トールがにゃーと鳴いた。


 微妙な空気を破るように、アイラスのお腹が鳴った。恥ずかしそうに、お腹を押さえている。ロムも、お腹が空いていた。


「ご飯、まだ、だよね?」


 ロムは、アイラスに話しかけた。まだわからないかなと思いながらも、一言一言区切って、ゆっくり言ってみた。

 アイラスは少し考えて、手を使ってご飯を食べる真似をした。


「うん、そう。ご、は、ん」

「ゴ、ハ、ン!」


 ロムがゆっくり発音すると、アイラスも繰り返した。


「じゃあ俺、着替えてくるから。待っててね」


 ロムは、汗と泥で汚れた自分の服を示して言った。アイラスは頷いたので、通じたのだと思う。




 食堂に行くと、昨夜と違って人が溢れていた。何人かがこちらを見た。いつもならそのまま無視されるけど、今日はアイラスと一緒なので、じろじろ見てくる人も居た。誰? とヒソヒソ声が聞こえてくる。


 保護区では、新しく人が入って来ても特に紹介はない。いつのまにか人が増えていて、いつの間にか居なくなっている。入居者同士で仲良くしましょうとかいう方針はないし、ただ死なないために入り、ここで勉強して、生きる力が付いたら出ていくのだ。


 誰かが気になる場合、積極的に声をかけていかないと縁は出来ない。アイラスと過ごす役目を、内心喜んで引き受けたけど、やっぱり悪影響ではないかと思う。自分と一緒に居たら、アイラスは誰からも声をかけられないかもしれない。心配になってきた。


「アイラス、ロム、おはよう」


 背後から声をかけられて、二人は振り向いた。燃えるような赤い髪。ホークが立っていた。頬の腫れが少し残っている。アイラスが、どれだけ強く叩いたかを物語っていた。


「……おはようございます」

「オハヨウ……」


 アイラスは敵でも見つけたように警戒している。さっとホークとロムの間に立った。庇われているように思えた。


「随分嫌われたね」


 ホークは苦笑して、そのまま通り過ぎようとした。ロムは慌てて声をかける。

 

「あ、先生! アイラスは今日から、先生の音楽の授業を受けます。よろしくお願いします」

「へえ? 音楽に興味があるのかい?」

「いや、それは……わからないですが、歌を歌えば、言葉も覚えやすいかなって……」

「ふ~ん……それ、私が以前教えたことだね」

「……はい」

「君は本当に優秀だね」


 ホークは嫌味たっぷりに言って去って行った。大仕事が一つ終わった気がして、ため息を付いた。アイラスが背伸びをして、ロムの頭を撫で、にっこり笑った。

 彼女は言葉がわからなくても、全力で周りの人の気持ちを知ろうとしている。言葉は理解し合うための手段だ。きっと言葉を覚えるのは早いだろうと思った。




 ホークの授業が始まるので、ロムとアイラスは急いで教室に向かっていた。教室にペットは持ち込めないので、トールは置いてきた。

 一緒に授業も受けなきゃいけないかなと思うと、ホークの顔が頭に浮かんで億劫になった。でもアイラスが一人で受けるのは難しいと思う。


 教室の前に着きアイラスを見た。がっちりロムの腕を掴んで一緒に入ろうとしている。やっぱりそうなるよねと、ため息が出た。


 教室に入ると、全員が一斉に二人を見た。一度覚えたら受けなくなる基礎教育と違って、音楽などの芸術系授業は、それが好きな者が繰り返し受けに来る。だから大体メンバーが決まっていて、新しい受講者は新しい入居者である場合が多い。ロムの顔は悪い意味で有名で、一瞬目を向けられたがすぐ逸らされた。みんなはアイラスの方に注目した。


 ロムを見ているのは、ホークだけになった。


「君も受けるのかい?」

「ええ、まあ……そうせざるを得ないというか……」

「受けるからには、君もしっかり歌いたまえ」

「わかってます……」

「じゃあ、二人共名前を書いて。今日の歌はそこに……ああ、あと一冊しかないから一緒に使ってくれ。今日歌うところに、しおりを挟んであるからね」


 ホークも、ロムが自分の授業を受ける事は面白くないんだろうなぁと、ますます嫌な気持ちになった。でもアイラスのためだから仕方ない。ロムは名簿に名前を書いて、ペンをアイラスに渡した。


 彼女は自分の名前の字がわからないようで、ポケットから魔法使いの認識票を取り出した。小さな金属板が、アイラスの手からこぼれ落ちた。あっと思った時には、一番近い席に座った男の子がそれを拾っていた。


「魔法使いだ! この子、魔法使いだ!!」

「すげー!」

「ニーナ様みたいに、光の花、出せる?」


 一瞬で教室内が騒めきたち、子供達は目をキラキラ輝かせて、アイラスの元に集まってきた。彼女はポカーンとしている。


「静かに! みんな席について!」


 ホークの声が響いた。男の子はアイラスに認識票を返し、アイラスは急いで名前を書き写した。


「アイラスは異国の出身で、言葉が話せない。そんな風にみなが一斉に話しかけたら、混乱するよ」

「言葉がわからないのに、どうやってお歌を歌うの?」

「ばっか! 先生が言ってただろ? 言葉を覚えるには、歌が一番いいんだぞ!?」

「じゃあ、始めようか」


 ホークがオルガンを奏で始めた。テンポの緩やかな童謡で、ロムも知っている歌だった。アイラスには聞き取りやすいと思う。アイラスが来る事を、ホークは朝食の時に初めて知ったはずだけど、そこからこの歌に変えたんだろうか。もしかして、昨日の時点でアイラスが来る事を予測していたのか。……この先生ならあり得る。


 アイラスは、本を見ても字が読めないので、目を閉じている。音に集中するんだろうなと思った。


 ふと見ると、ホークが睨んでいる。そうだった、自分も歌うんだった。仕方なく、ロムは皆に遅れて歌い始めた。






 ——それは、存在感のある歌声だった。玄人のように声量があり、心にからみつくような声。それが、教室に響き渡った。






 1人、また1人と、歌うのを止めていった。歌っているのは、ロムだけになっていた。

 あれ? と思ってロムも歌うのを止めた。オルガンも止まった。ホークは、笑いをこらえるように震えている。アイラスを含め、全員がロムに注目していた。


「すっ……げーー!!」

「ロムって、こんなに歌上手かったんだ!」


 先程アイラスに出来た人だかりが、今度はロムの周りに出来た。意味が分からなくて、助けを求めるようにホークを見た。でも心底楽しそうな彼の顔を見て無駄だと悟った。


「こらこら、ロムが困ってるよ。それに、今日来たばかりの人だけに歌わせたらダメじゃないか」


 その言い方は、本気で叱ってない事がありありと伝わって来る。子供達もそれを分かっていて、だってさー、等と楽しそうに話している。


「とにかく、始めるよ。今度は、歌を止めないで」


 その後は、普通に授業は進んだ。授業が終わると、ロムはまた子供達に囲まれて質問漬けにあった。どうして今まで音楽の授業に来てなかったのか、今後は来るのか等、ロムには明確な考えがなくて、答えにくい質問ばかりだった。


 ようやく解放され、アイラスの元に行った。とても嬉しそうにニコニコしている。側にホークが立っていてげんなりした。


「ロム、悪いけれど」


 全然悪いと思ってないような顔でホークが言った。嫌な予感しかしないが、ロムは小さく頷いた。


「今日、この後は予定はないのだろう? アイラスに歌を歌ってあげてくれないか。今はまだ聴かせるだけでいい。本は次の授業の時に返してくれたまえ」


 そう言いながら、たくさんしおりが挟んである、今日使った教本を渡された。

 想像したほど大変な事ではなかったので安心した。




「今日は素敵な歌をありがとう」


 教室から出ようとした時、後ろからホークが声をかけてきた。唐突な褒め言葉に面食らった。今までのホークの態度を思うと、全然信用できない。

 返答しかねていると、ホークは呆れたように言った。


「あんなに多くの子が君を認めたのに、まだ自覚がないのかい?」


 ホークは優しい顔をしているが、それを信じる事は難しかった。

 アイラスはじっと待っている。警戒感はない。ということは、悪意は無いのかもしれない。無意識にそう考えて、自分よりアイラスを信じている事に驚いた。


「二年前、音楽の授業に一度だけ来てくれたね」


 ホークは歩いてきて、二人を追い越し、そのまま振り返らずに言った。


「あれからずっと待っていたよ。アイラスのためであり、君にとっては不本意だったかもしれないがね」

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