135 藤堂さんと江戸へ
いよいよ江戸へ向けた出立の日。全ての支度を終え、朝日が差し込み始めた部屋をぐるりと見渡した。
禁門の変があった時も長らくこの部屋には帰って来れなかったけれど、今回はもっと長い。次ここへ帰って来られるのはおよそ二ヶ月後。
そんなことを考えていたら、後ろから土方さんの声がした。
「そういや、お前がここへ来てからもう一年が経つのか」
「……はい」
三月の下旬に車に轢かれ、気づくと文久三年の八月十五日だった。
あれから一年、本当に色々なことがあったし悲しいこともたくさんあった。それでも、一年もここで生活していればやっぱり少し寂しくもなる。
「……江戸へ行くの、辞めるか?」
相変わらず何でもお見通し。感傷に浸りかけた私を見透かす少しだけ意地悪な声に、ゆっくりと振り返りふるふると首を左右に振れば、苦笑しながらも真っ直ぐな視線が返ってくる。
「なぁ、琴月。こっち来い」
言われた通り目の前へ立てば、土方さんの手が私の髪に触れた。
「髪、伸びたな」
「……はい、だいぶ」
「そろそろ結えそうか」
長さがまばらだったので、時々短い毛に合わせて簡単に切り揃えていたけれど、確かにもうしっかり結えるかもしれない。
髪から手を離した土方さんは、側にある箪笥の引出しを開けて櫛と赤い紐を取り出した。
「後ろ向け。結ってやる」
「それくらい自分で――」
「いいから後ろ向け」
櫛と紐を軽く咥えるなり、両手で私を強引に反転させその場に座らせた。
抵抗は諦めてされるがままになっていれば、背後から伸びてきた両手が首の辺りで髪を背中側へと流していく。微かに触れた手がくすぐったくて思わず首を竦めれば、小さく笑われた。
「じっとしてろ」
「……すみません」
髪に櫛が差し入れられるたび、くすぐったさに思わず肩が跳ねる。そんな私の反応を楽しむように、土方さんは優しく
玄関で藤堂さんと合流すると、伏見まで見送りに来てくれるという土方さんと井上さんも一緒に屯所を出た。
藤堂さんと並んで歩けば、その後ろに土方さんと井上さんが続き、土方さんは私の分の旅の荷物を持ってくれている。
旅の諸注意を散々聞かされながら伏見へつけば、土方さんが荷物を手渡しながら言った。
「寄り道すんじゃねぇぞ」
「わかってます」
その台詞ももう何度目だろう。
隣の井上さんなんて、呆れたように苦笑している。
「歳、心配なのはわかるが、その辺にしとかないと口うるさい父親みたいだぞ?」
「はぁ!? こんないうこときかねぇ餓鬼なんざいらねぇよ!」
「なっ……私だって、こんなうるさいお父さんなんていりませんよ!」
睨み合いを始めれば、今度は藤堂さんが割って入った。
「そろそろ行くよ?」
「えっ、あ、はい! すみませんっ」
慌てて土方さんと井上さんに向き直れば、改めてその顔を見上げた。
「行ってきます!」
「おう。二人とも気をつけて行って来い。そして無事に帰って来い」
「はい! 行ってきます!」
そう告げて、藤堂さんと江戸へ向かって歩き出す。少し歩いたところで振り返れば二人はまだそこにいて、大きく手を振ってみせれば、前を向け! と大きな声が返ってくる。
何度かそんなことを繰り返すも、徐々にその姿も声も遠ざかり、ここから先はもう見えなくなる……そんな場所まで来ても二人の姿はそこにあった。
最後にこれでもかと大きく手を振ってから前を向けば、藤堂さんが吹き出した。
「まるで今生の別れだね」
「そ、そんなんじゃないです! でも、
ここへ来て一年が経ったとはいえ、私が知っているのは新選組のみんなや屯所を中心とした狭い世界だけだ。
自分で決めたことではあるけれど、長期間離れるのはやっぱり寂しいし不安だってある。
「みんなに、じゃなくて土方さんに、じゃないの?」
「へ?」
「芹沢さんの気まぐれとはいえ、ずっと同じ部屋で寝起きしてたんでしょ? つまり、二人はそういう関係なんじゃないの?」
「なっ、違います! 確かに、普通に考えたらもの凄く誤解されても仕方がないですけど、本当にそういうんじゃないんですっ!」
「へー」
「へーって。信じてないですよね? 疑ってますよね!?」
それからも必死に反論すれば、藤堂さんはとうとう堪えきれないとばかりに吹き出した。
「あはは。アンタってやっぱり面白い」
「なっ、藤堂さん!? 本当に部屋を間借りさせてもらってるだけで、私なんてきっと邪魔者ですからね!?」
「わかった、わかったからもうやめて。笑い過ぎて涙まで出てきた」
そう言って目尻の涙を拭い終えると、藤堂さんは少しだけ真面目な顔をした。
「でもさ、正直驚いた。まさか春が女だなんて、考えたこともなかったから」
「それは……えっと、隠していてすみません……」
「いいよ。男だろうと女だろうと、春は春なんだし。ああ、安心して。もちろん誰にも言わないから」
「重ね重ねありがとうございます」
深々とお辞儀をする私に向かって、藤堂さんはどこか悪戯っ子の笑みを浮かべた。
「だって、オレが喋ったせいで春が切腹したら寝覚めが悪いし」
「っ! いや、あれは……どうなんですかね? 冗談であって欲しいですけど」
「土方さんが言うんだから本気なんじゃないの」
そ、そうなのかな? やっぱりそうなのかな!?
「と、藤堂さん。どうか秘密厳守でお願いします! まだ死にたくないですっ!」
「あはは。アンタやっぱり面白い」
そう言って再び涙が滲むほど笑っているけれど、全然笑い事じゃないからねっ!
途中、少しの休憩を挟んだりしながら大津宿を超え、草津宿についた。
ここは
「二十日鼠……」
「なっ……そういう藤堂さんだって、子犬みたいですからね!」
顔を見合わせ、二人同時に吹き出した。
本当は少し心配だったけれど、藤堂さんはこうして今までと変わらず接してくれる。それが凄くありがたいし嬉しかった。
「これ食べたら、今日は隣の守山宿まで行くよ。中山道は東海道に比べて距離があるから、できるだけ先に進みたいしね」
「わかりました。……って、東海道じゃないんですか?」
「東海道は川で足止めされることもあるし、取り締まりも厳しいからね」
東海道五十三次なんて有名だから、てっきりそこを通るものだと思っていたけれど。
どうやら東海道には大井川という大きな川があり、橋もかかっておらず渡し船もない。
もちろん、増水していれば渡ることはできないし、数日足止めを食らうなんてこともあるのだとか。
そして、ここ草津宿は東海道と中山道の分岐点になるらしく、小腹を満たし終えると隣の守山宿を目指して歩みを再開するのだった。
守山宿につくと、土方さんが持たせてくれた女性物の着物に着替えた。昨日のような綺麗なものではなくいわゆる旅装束だけれど。
お風呂問題もあるので、ここから江戸の近くまではこうして女として旅をするように言われている。
着替えを終え襖の向こうで待っている藤堂さんに声をかければ、私の姿を見るなり真顔で口を開いた。
「本当に女……なんだね」
どういう意味だ、それは!
それから夕餉もお風呂も終えれば、明日も朝早いからとすぐ就寝となった。
並べられた二組の布団にそれぞれ潜り込めば、隣から藤堂さんの声がした。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
旅の疲れもあり、すぐに眠りへと落ちていくのだった。
翌朝、まだ日も登らないうちに起こされると、支度をしてさっそく旅を再開する。
並んで歩いていたはずなのに、気づけば少しずつ距離が開くことが増え、少し先で立ち止まった藤堂さんが振り返った。
「春? 昨日より歩くの遅いけど、もう疲れたの?」
「あ、いえ、その……大丈夫です」
ここへきて随分と脚力も鍛えられたけれど、平坦でもなければ真っ直ぐでもない道を長時間歩くのは初めてなうえに、どうやら昨日の疲れも抜けきっていない。
まだたったの二日目だというのに、こんなんじゃ先が思いやられる……。
「疲れたんでしょ? はい」
「……へ?」
私の前には、藤堂さんの手が差し出されている。
「手、貸して。引いてあげる」
「い、いえ。さすがにそれは……」
「急かすつもりはないけど、江戸まではまだあるから」
そう言うと、藤堂さんは返事を待つことなく私の手を取って歩き出す。
なんだか手を繋いでいるみたいで俯きがちに引かれていれば、藤堂さんが振り返った。
「春? 具合でも悪いの? 顔が赤いよ?」
「い、いえ。大丈夫です」
ただ恥ずかしいだけだ。
そんな私に気がついたように、藤堂さんまで慌てだす。
「え……まさか照れてるの? 待って、照れないでくれる? ……こっちまで照れるから。とにかく江戸まではまだあるんだからさっさと行くよ」
そうだった。旅はまだ始まったばかり。
私のせいでペースが落ちて、予定よりも大幅に遅れてしまったらそれこそ申し訳ない。
ありがとうございます……とこのまま藤堂さんの好意に甘えることにした。
そうして数日歩き続ければ、熊谷宿を超えた辺りで藤堂さんが指をさした。
「春、見て。富士山」
「わっ! 本当だっ!」
東海道では富士山が見えるけれど、中山道は山の中を通っているので富士山が見えるのは関東の辺りだけらしい。
熊谷ということは、埼玉のあたりだろうか。いよいよ江戸まではあと少しだ。
最後の宿泊地となった大宮宿を出発すれば、ここ数日ずっとそうしてきたように差し出された手を掴んで歩く。
いくつかの宿場町を超えるその間、どういうわけか昨日まではなかったはずの違和感があった。
「あのー、藤堂さん。……気になりませんか?」
「何が?」
「なんだか今日は、すれ違う人の視線がやたらと気になるんですが……」
「もしかして気づいてないの?」
思わず首を傾げれば、藤堂さんが吹き出した。
「今日はこのまま江戸に入るから着替えたでしょ? だからだよ」
「着替えただけで? ……って、ああっ!」
そうだ、そうだった!
今日はこのまま江戸に入るからと、袴に着替え男装していることを忘れていた!
それなのに、こうしていまだ手を引いてもらっている。傍から見れば、男と男が手を繋いでいるようにしか見えない……男色だと思われているわけだ!
「す、すみませんっ!」
慌てて手を振りほどけば、藤堂さんが声を上げて笑い出した。
「別にそのままでもよかったのに。どんな格好してたって、春は春なんだし」
「い、いえ。私はともかく、藤堂さんが男色だと誤解されるのは申し訳ないので」
「ホント、アンタってば面白い」
そう言って、藤堂さんが目尻の涙を拭えば江戸はもう目前。
今回お世話になる予定の近藤さんの家、市谷甲良屋敷というところにある試衛館へと向かうのだった。
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