Episode.5

殺人鬼となった男

 男―〈切裂きりさき魔〉エルリック・ハルバードは、生まれた時から狂った子どもではなかった。


 彼は娼婦の母と会社員の父の間に生まれた、望まれない子どもだった。

 その為か、人並みの愛情を与えられる事もなく、まるでいない存在として扱われた。事実、出生届を出されておらず、世間的にも「エルリック・ハルバード」は存在していない。

 父親は外に他に女を作っているようで、時々この家に来るだけで普段は他の女の家を転々としているようだった。母親は仕事で夜はおらず、昼間は客の男であろう人間を家へ連れ込んできていた。

 衣食住の衣と住は辛うじて存在していたが、飯はなかったエルリックは、親の目を盗んで食を盗んでいた。


 帰る事の出来る場所があっても、帰る場所のなかったエルリックは、護身用にナイフを持ちそれから簡単な喧嘩を覚えると、一日中街を出歩いていた。

 社会的弱者から金を巻き上げるのは、幼くも強かなエルリックには容易だった。

 だが、エルリックは大人に勝てるだけの力はまだ持っていなかった。


「お前...!ふざけんなよっ!」

 だから、この日。エルリックはガタイの良い男に胸倉を掴まれていた。金をくすめようとしていたのが、あっさりとバレたからだ。

 明らかにカタギの人間とは思えない形相で、エルリックを殴ろうとしていた。

 別にこれが初めてでもないエルリックは、いつ殴られてもいいように頬を突き出していた。

 拳が風を切る音がした瞬間、

「っやめなさい!」

 凛とした女性の声が薄暗い路地に響いた。


 彼女は、日の光が差す方向から声を上げており、その顔はどういった表情をしているのかエルリックには分からない。

「何だ女ァ?」

「神はいついかなる時も空の上で見守っていてくださいます。そのような、か弱い子どもをいじめるなんて、許されない事です!」

 エルリックが最初に手を出したという事実を知らない彼女は、凛とした声で整然とそう言った。

 男は僅かに眉を顰め、これ以上なにかをしても無駄と悟ったのか、エルリックをぽんと投げ捨てて去って行った。金はとられていないから、良いと思ったんだろう。

 女はエルリックに駆け寄った。近くで見ると、彼女はシスターであった。

 腰辺りまでありそうな茶髪に、青空の色をした瞳に、エルリックは釘付けになった。

「君、大丈夫?!」

「.........何だよ別に。助けなくてよかったってーのに」

 エルリックはぶっきらぼうに目を反らしながらも、彼女から目を離せなかった。

 彼の持っている言葉だけでは上手く彼女を表現できないが、間違いなく普通の目を引く美人だった。

「あ、擦り剝いちゃってるね。消毒液...、あぁ、ないなぁ」

 彼女は腰のポケットを探って、それから残念そうに肩を竦めた。

「俺の話、聞いてんのか?!いらねって、」

「そういう訳にはいかないよ!神様はね、いついかなる時も見ていらっしゃるの。聖書の...、あっと...、何条だったっけ...。と、とにかく!人助け!大事!」

 彼女はそこで言葉を濁し始めた。しかし、すぐに勢いよくエルリックに指を差してきた。

「...本当に、シスターかよ」

「う、ま、まだ見習いなんだもん!もう少ししたら、アルフィスさんみたいな素敵な...」

「見習いシスターかよ」

 エルリックの言葉に彼女は顔を顰め、しかしすぐにエルリックの身体を抱えた。唐突なその動きに、エルリックは目を白黒させて彼女の首にしがみついた。

「お、お前っ?!」

「私の居る教会で手当てするよ。お父さんかお母さん、近くに居る?」

 その二つの単語にエルリックは僅かに彼女から目を反らした。

 気まずそうな顔をした彼に何も言わず、彼女はエルリックを抱えたまま歩き出した。


 五分経ったかどうか、白い教会とその横に赤い屋根の家があり、そこでは数人の子どもが小さな赤い花の咲いている庭で遊んでいた。

 彼らの内の一人が、エルリックを抱えた彼女を見てパッと顔を輝かせた。

「シスター!」

「レイファお姉ちゃん!」

 口々に彼女の名前を言い、彼女の元へ駆け寄って来た。見習い、という言葉は本当らしい。

「その子はー?」

「ちょっと怪我してたからね、手当てしに来たんだよ。ごめんね、救急箱の所に行かせてくれるかな?」

 彼女は子ども達の間を割って、赤い屋根の家の方へ入って行った。入ってすぐに、彼女は隣の部屋へ入る。そこはつんと薬品の匂いがした。


 エルリックを白いシーツのベットに下ろし、彼女は棚から赤十字の箱を探す。

「別に、手当てとかいいって」

「破傷風になったらだめじゃない!」

 びしっと彼女は指を差して、そして箱から消毒液と絆創膏を取り出した。それを擦り剝いた膝へ持っていく。

「......あんたさ、名前は」

 消毒液の沁みる痛みに顔を顰めながら、エルリックは訊ねた。

「目上の人にはさん付け!...私はレイファ・サルバシエン。このルーシャ教会の見習いシスターよ。...君は?」

 ここで答えずとも、別に良かったというのに。エルリックは気付けばドキドキと胸を高鳴らせながら、己の名を口にしていた。


「エルリック・ハルバード...だ」



 その日から、エルリックは家を拠点のような形にし、時々レイファのいるルーシャ教会へ足を運んでいた。

 働ける年齢になってからは、肉体労働をしながら稼いだ金を、孤児院の設備金として寄付したりおもちゃやお菓子に変えたりして渡した。余った金でも充分生活が出来る程、エルリックは物欲がなかった。

 教会には一週間に一度足を運ぶ。そのたびにレイファと出会い、彼女と話す。それがエルリックには唯一の幸福の時間だった。

「...よぉ、シスター」

「あ、エル!」

 今日もまた、エルリックは紙袋を手に提げて、教会と孤児院の前の道を掃き掃除しているレイファに声を掛けた。

 エルリックはいつもと同じように、レイファにぶっきらぼうに紙袋を突き出した。彼女もまたいつもと同じように、少し苦笑いしてそれを受け取った。

「ありがとう、エル。いつもいつも...。子ども達も凄く喜んでくれてるよ」

 レイファはにこっと笑う。思わず顔が綻びそうになるのを歯を食いしばってエルリックは堪え、ふいとそっぽを向いた。


 あれから、数年が経っている。エルリックはレイファより背は高くなり、見習いシスターは正式なシスター・レイファとなった。

 孤児院の子ども達も、数年も経てば顔ぶれは大分変わっている。

「あ、今日はどうする?」

 レイファはエルリックの顔を覗き込むようにして、青色の瞳で黄色の瞳を覗き込んでくる。

 エルリックはちらっと孤児院の庭の方を見る。そこではいつも遊んでいる男の子グループ数人が、ボールを片手にキラキラとした瞳を向けている。

 遊んで欲しい、と顔に書いてあるようにエルリックには見えた。

「......いいか?」

「勿論」

 エルリックはひょいと白い柵を越えると、ボールを持つ少年の元へ歩いて行った。


「ありがとうね、エルのお陰で他の仕事に手が付けられるから助かるわ」

 昼寝の時間になり、エルリックは別室でレイファと小さな茶会を楽しんでいた。

 コーヒーも紅茶も飲めないエルリックは、子ども達と同じくオレンジジュースを飲み、レイファは紅茶に口を付ける。余った菓子に手を付ける。

「いいって別に。好きでやってんだからよ」

「相変わらず愛想ないわね」

 レイファは眉を寄せてくすくすと笑う。その笑顔でさえも、彼女は美しかった。

 それから二人は他愛もない話に花を咲かせる。仕事の話、子どもの話。小さくともその茶会に会話が途切れることは無かった。


 ずっとこんな優しい日々が続くと、エルリックは思っていた。

 それが打ち砕かれるまでは。


 その日も、特に変わりなく紙袋には飴が入った袋を入れてルーシャ孤児院へ向かっていた。

 その道の前でふわりと鉄臭い匂いが鼻を掠めたのを覚えている。喧嘩を毎日のようにしていたエルリックには、久し振りに嗅ぐ匂いだった。

 何かがおかしい、とエルリックは眉を寄せる。

 いついかなる時に何者かに襲われていいように持っているナイフの位置を把握しながら、エルリックは雰囲気の違う孤児院の方へ足を入れた。


 中に子どもは一人もいなかった。それどころか、シスターの姿も見えない。もぬけの殻だった。しかし、エルリックが入っている事から分かるように、鍵は開いている。

「シスター?...いないのかー?不用心だぞ、鍵開けっぱなしでよぉ」

 エルリックはレイファに呼びかけるように声を出す。その時、強く鉄の匂いがした。それは教会と行き来する通路の方からだった。

 彼は眉を寄せて、教会の方へと足を踏み入れる。


「っ!?シスター!」

 そこにシスターは倒れていた。しかしいつもの服装を血でべったりと染めていた。エルリックは目を丸くして、彼女の側に駆け寄った。

「っ何だよ、どうなってんだ?!」

「っぅ......」

 エルリックの声で意識を取り戻したらしい彼女は、ゆっくりと瞼の奥の青空の瞳を覗かせる。

 彼女はゆっくりと手を伸ばすと、エルリックの頬に触れた。その手は血に濡れていたが、エルリックは気にしなかった。

「エル...、逃げ、て......。貴方も、死んじゃう...」

「...なんでだよ。何でシスターが死ななきゃなんねぇんだよ!悪人だけだろ、死ぬのはよぉ!」

 胸の奥からどす黒い思いが溢れ出てくる。頭の中に血が上る。

「ねぇ、エル......。酷いお願いしても...いいかな?」

 絞り出すような声に、エルリックは小さく狼狽えた。

「何だよ...」


「殺して...欲しいの」


 カッとなっていた頭は、冷や水をかけられたように冷めた。

「痛いんだ......、苦しいの......」

「殺して、欲しいんだな...。俺が、殺して、いいんだな...?それでカミサマの元にお前は、行けんのか?」

 エルリックは少し震えた声で、レイファに訊ねた。

「神様の元に行けなくても...、いいよ。私は痛いの苦手なんだよね」

 えへへ、とレイファは笑う。その口の端からは血が零れていた。エルリックはグッと強く肩を抱いた。

 そして、ナイフを腰から取り出す。

「......俺さ、お前好きだったぜ」

 レイファは目を丸くして、それから静かに微笑んだ。そして口が「ありがとう」と口が動いた。

 ごめん、とは言わなかった。


 エルリックはグッとナイフの柄を握り締め、微笑むレイファの胸へ振り下ろした。

 他の傷口から血が噴いているからだろうか、勢いよく噴き出す事はなかった。びしゃびしゃと、服が赤に染まって行く。

「何だよ...」

 エルリックは胸に刺さっていたナイフを抜き取る。その瞳に感情はない。

「...普通だ。何も感じねぇ」

 エルリックはナイフを腰へ戻し、既にこと切れているレイファを見た。彼女は穏やかな笑顔をエルリックに向けていた。優しくゆっくりと抱き寄せる。

 もう冷たかった。


「.........ごめん」


 ただ一言だけ、エルリックは謝った。


 その後は、エルリックは家に帰る事を止めた。一人でふらふらと歩く根無し草である。

 しかしただふらついていたわけではない。レイファ達ルーシャ孤児院を襲った人間が誰なのかを知るべく、情報屋を転々としていたからだ。

 その情報屋の情報により、政府側の人間がたくらんだ事であると知り、片っ端から議員や警察などを殺していった。

 喉を裂いて殺す。その殺り方から、一カ月も経てば〈切裂きりさき魔〉という名前が与えられた。

 

 それが原因でエルリック・ハルバードは、指名手配された。


 警察やその他民衆の協力により、彼は僅か数カ月で逮捕されてしまう。どれだけ戦いに強くとも、頭が良くなければ相手の手を読めず捕まるのは当然だった。

 罪状は、警察・市議員の刺殺が数名。そしてルーシャ孤児院の殺害事件。

 エルリックは何も言わなかった。どうせ死刑が下されるのならば、どんな罪でも受け入れる気だったからだ。

 しかし、彼に下された判決は〈大監獄〉行であった。


 そして彼は南アリステラ地区から北アリステラ地区へと送られた。


 そしてそれから数年後。

 エルリックはアイラ・レインと出会う。

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