第44話 自覚なき好きな人

 会社から徒歩十分ほどのチェーン系の居酒屋。平日の夜なので、客の入りはまばらだ。隣の席との間には仕切りがあり、誰が座っているのかはわからない。


 翼はメインの肉料理を食べつつ、目の前にいる亜美を見る。翼の視線に気づくと、亜美はにっこりと笑う。そして、とんでもないことを口にした。


「槙本さんって、学生時代に付き合ってた人はいたんですか?」



 肉が喉に詰まりそうになった。



 亜美に夕食に誘われて、この店にやってきたのが一時間ほど前の話だ。


 断るのも不自然な気がして、一応誘いに乗ってみた。この一時間はたわいもない話をしていたので、すっかり油断していたが……。まさかこんな質問が来るとは思わなかった。


 翼は内心「言いにくいな」と思いつつ答える。


「私、誰とも付き合ったことないんです」


「え、意外……。槙本さんきれいな人だからモテると思ってました」


「女の子にはモテてましたけどね」


 高校までの時のことを思い出し、苦笑いする。男子生徒と間違われて、告白されたことは数えきれないほどあった。


 翼の答えに亜美は興味深そうに頷く。そして、さりげない口調で言った。


「紫藤さんはどうでした?」


 真琴の名前に心臓が脈打つ。しかし、動揺を押し隠し、つとめて冷静に答えた。


「どうでしょう……。あんまり女の子にモテてたっていう記憶はないですね」


 真琴の恋愛関係で印象に残っているのは、港に強く執着されていたことだけだ。


 他の女子学生たちが真琴に好意を持っていたのか……今となってはよくわからない。


 翼の答えに、亜美は何かを考え込むように頷く。しかし、次に出てきたのは全く違う話題だった。


「槙本さん、藍田さんに告白されたりとかしてないんですか?」


 手に持っていたフォークを取り落としそうになった。


「え、何でですか……?」


 かすれた声で言う翼に、亜美は小首を傾げながら言う。


「だって、仲いいじゃないですか。帰りに抱き合ったりしてましたし。美男美女でお似合いだと思いますけど」


「いや、あの、抱き合ってたっていうのは誤解です! あれは私が酔ってたからで……」


 翼はしどろもどろになった。しかし、亜美は勢いのある口調で、翼を説得するように言う。


「人間って、酔うと本音が出る生き物ですよ。普通、好意持ってない男の人に、抱きつきませんって。槙本さん、自覚ないだけで藍田さんのこと好きなんじゃないですか?」


「ええっ!?」


 そんなことはありえない。翼は真琴が好きなのだ。


 しかし「自覚がない」と言われると、少し考え込んでしまう。なぜなら三年前も、自覚がないまま真琴を好きになっていたからだ。


(今も自覚ないけど、港さんのことが好きなのかもしれないってこと……?)


 あまりにも衝撃すぎる。


 ――好きなんじゃないですか?


 亜美の問いかけは、離れては戻ってくる、波のようだ。


 ――私が好きなのは真琴くん。


 心の砂浜にそう書いても、一瞬で波が押し寄せる。


 そして、砂の上に書いた文字を打ち消してしまうのだ。



 * * *



 時は、一時間ほどさかのぼる。



 真琴は営業部の事務所で仕事をしていた。真琴の他には港がいるだけだ。仕事を終えたのか、港が席から立ち上がって言う。


「真琴、家に帰らなくていいのか」


「まだ仕事が残ってるので……」


 そう答えると、少し間をおいて港がゆっくりと言った。


「実家に帰らなくていいのか」


 思わず顔を上げると、港は鋭い目でこちらを見ていた。


 どう答えるべきか。


 港はもう、真琴が入院した原因は事故ではなく事件であると見抜いている。下手に隠しても無駄だろう。


 だから、簡潔に自分の気持ちを話すことにした。


「今は帰りたくないんです。どうせ辞めるとしても、数か月後になりますし」


「命を狙われてるって言えば、会社も考えるんじゃないか?」


 珍しく強い口調で言う港に、思わず苦笑いする。


(皆、僕が実家に帰るように勧めるんだな……)


 しかし、帰らないと決めたのだ。真琴は、落ち着いた口調で説明する。


「今日、佐藤部長の支援者の人が来てたんですよ。状況は変わってきてます。それに……」


 一度言葉を切る。


 そして、まっすぐ港を見て、強い口調で言った。


「たとえ命を落としても。好きな女性を置いて逃げ帰るなんて真似、したくありません。帰った後、彼女に何かあったら一生後悔します。だから僕は帰りません」


 それが、男として下した決断だった。


 真琴の言葉に、港は目を見開いた。そして、呆れたように笑う。


「お前は高校の時から変わらないな」


「変わらない?」


「俺が演劇部を辞めろって言っても、ぎりぎりまで辞めようとしなかっただろう」


「ええ、まぁ……」


 真琴は苦笑いしながら頷く。確かに、精神的に限界だったのに「男として認められる場所が演劇部以外にない」と信じ込んで、辞めようとしなかった。


「あの時は、視野が狭かったんだと思います」


 そう言うと、港は「今は広くなったな」と目を細めて笑った。


 数年の時をさかのぼり「塾の先生」に褒められたような感覚だ。


 不思議な気持ちになっている真琴に、港は微笑む。そして「お疲れ」と言って帰っていった。



 * * *



 約一時間後、仕事を終えた真琴は、会社近くの居酒屋で食事を取ることにした。


(さすがに疲れたな……)


 復帰した直後に数時間の残業は、なかなか堪える。


 案内されたのは、奥の方の席だ。そして、席に着いた瞬間、仕切り板の向こう側から、若い女性の声が聞こえてきた。


「人間って、酔うと本音が出る生き物ですよ」


 声に聞き覚えがある。思わず耳に全神経を集中させた。もしやこの声は……。


「普通、好意持ってない男の人に、抱きつきませんって。槙本さん、自覚ないだけで藍田さんのこと好きなんじゃないですか?」


「ええっ!?」


 仕切り板の向こうから聞こえてきた亜美と……翼の驚いたような声に心臓が止まりそうになった。


 翼は何と答えるのだろう。


 いくら耳を澄ましても、翼の声は聞こえてこなかった。ただ、食事をしているらしい気配がするだけだ。


 なぜ何も言わないのだろう。翼自身にもわからないのか。


 真琴は全身が冷たくなっていくのを感じながら、考えを巡らせる。


(確かに酔ってるからって、何とも思ってない人に抱きつかないよな……)


 翼が真琴を好きでいてくれているのかもしれない。そう思ったのは、やはり勘違いだったのか。


 たとえ命を落としても帰らないと決めた。しかし、翼が港のことを好きであるならば、彼女を守るのは真琴の役目ではない。港の役割だ。


 実家に戻らず、ここに残る意味はあるのか。


 先ほどの「帰らない」という決意表明が、根底から崩れていく。



 すぐ近くにいるのに、翼との距離がひどく遠く感じた。

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