第40話 大人になった子供

「真琴くん、体はもう大丈夫?」


 翼はそう言いながら、ベッドの横にあった椅子に座った。真琴は、ゆっくりと上半身を起こしながら言う。


「だいぶマシになったよ。来てくれてありがとう」


「よかった。……あの、佐藤部長に突き飛ばされたって本当?」


 遠慮がちに尋ねると、真琴は頷く。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。


 佐藤に「お前のせいだ!」と言われて突き飛ばされたこと。とっさに佐藤の服を掴んでしまい、一緒にホーム下に転落したこと。


 佐藤もこの病院に入院しているそうだ。真琴よりは軽傷で命に別状はないという。


 そして、真琴の病室にはここ数日、警察関係者がやってきて話をしていたそうだ。


 警察という言葉に目を見開く翼に、真琴は静かな口調で言った。


「佐藤部長、心療内科に通ってたんだって」


 会社には黙っていたが、精神障害があったようだ。


 沙知へのセクハラについて、佐藤はいまだに「あれは向こうから誘ってきたんだ!」と言っているという。


 誰もが言い逃れだと思っていた。しかし、妄想性障害ゆえに「本気で」言っているらしい。真琴に対して、逆恨みしていたのも被害妄想の一種だという。


 深いため息つきながら真琴は言った。


「親は訴えろって言ってるけど、僕はもういいよ。争いごとは続けたくない」


 その言葉はわからなくもなかった。しかし、翼としては同意できないところもある。


「また、危険な目に遭ったりしない?」


 真琴の親も、息子が危険な目に遭わないか心配しているのだろう。だから「訴えろ」と言っているのではないか。


 しかし、真琴は首を横に振りながら言う。


「宮井さんが言ってたんだ。労働審判で勝ったけど、心は救われないって。争っている間、相手を恨むだけになるからって。宮井さんは勝ったけど、就職先が見つかるわけでもないし、セクハラされた事実が消えるわけでもない。……相手のことを許せるわけでもない」


 それは翼にとって、意外な事実だった。労働審判や裁判などは、勝利した側は幸せになると思っていたからだ。


 しかし、真琴の言う通り、労働審判が終わっても、沙知は就職活動を始めなければいけないのだ。そして、「またセクハラされるのではないか」という恐怖とも闘うことになるだろう。


 訴えられた側の社員……実質上の第三者に過ぎない翼は、何も言うことができない。


 真琴は一つ一つ適切な言葉を探すように、ゆっくりと話す。


「僕は、争わなくていい道を探したいんだ」


「たとえば?」


 翼が首を傾げると、真琴は窓の外に目を向けて言った。


「警察の人が、佐藤部長に支援機関を紹介したって言ってた。佐藤部長、もうすぐ退職するし。それで、しばらくは様子を見てみようかなと思って」


「……真琴くんは大人だね」


 翼が何気なく口にすると、驚いたような顔をした。


「なんで?」


 真琴はそう言うと、真剣な表情で翼を見つめた。熱のこもった視線に思わずたじろぎながら答える。


「だって、私は佐藤部長に対して腹が立ってるし。また、何かされたらって思うと怖いし。もし、私が真琴くんの立場だったら、たとえ救われなくても訴えるかもしれない。だから、『争わなくてもいい道を探したい』っていう言葉が、大人だなって思って……」


 そう言うと、真琴は嬉しさと悲しさが入り混じったような複雑な表情をする。そして、かすれた声で言った。


「三年前、僕の気持ちは忘れてって言ったのに……大人だって思ってくれるの?」


 翼は心臓をわしづかみされたような気持ちになる。


「どういう意味?」


 声が震えている気がした。三年前のことを思い出す。胸が騒がしくて落ち着かない。


 真琴は苦しさと悔しさを、同時に吐き出すように言った。


「あの時の僕は子供だったと思う。自分で告白したのに、翼ちゃんに『忘れて』って言った。仕事も家庭も……恋愛も、全部背負いきれる自信がない子供だった。今は、あの時よりは大人になったとは思う。でも正直、大人になれてる自信はない」


 心の奥底から絞り出すような声だった。


 初めて聞く真琴の「本音」は、心に静かに染み渡っていく。


 三年前にこの言葉を聞いていたら、どういう気持ちになっただろう。それは翼自身にもわからない。


 しかし、今、この瞬間。


 自分でも不思議なぐらい、穏やかな声が出た。


「あの時は真琴くん、大変だったもん。当たり前だよ」


 今だからこそ言える言葉だ。三年前、何度も自分に言い聞かせてきた言葉でもある。


 真琴が退学した後、実は何度か告白しようかと考えた。しかし、実行できなかった。真琴が今言ったように「全部背負いきれる」状態ではないことがわかっていたからだ。


 おそらく、付き合えたとしても長続きしなかっただろう。


「私は子供だなんて思ってないから。気にしないで」


 笑って言うと、真琴は曖昧に頷いて沈黙する。


 そして、ふと思い立ったように、ベッドから身を乗り出してきた。真琴の顔がいつもより近くて、どきりとする。ドギマギしていると、真琴が口を開いた。


「ねぇ、何で港さんのこと抱きしめてたの?」


 頭が一瞬、真っ白になった。


(私、本当に港さんに抱きついてたんだ! っていうか、なんでよりにもよって真琴くんに見られちゃうの!?)


 他の異性に抱き着いている所を見られるなんて、恥ずかしすぎる。翼は必死に弁解した。


「違う! あれは違うのっ! あの日、お酒に酔ってて覚えてなくて……!!」


「……そうなの?」


 真琴は全身の力が抜けたような表情になった。


 一応、誤解は解けたのだろうか。


「ま、真琴くんこそ……」


 寺川さんに告白されたんだよね? と言いかけた時。



 部屋の外から、砂糖菓子のように甘い声が聞こえてきた。


「あれっ、藍田さん。お見舞いですか?」


「そっちもか」


 次の瞬間、ドアをノックする音と共に、亜美と港が病室に入ってきた。

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