第39話 彼と彼女のこれから

 真琴が、病院に運ばれたという連絡を受けて、営業部の事務所内は騒がしくなった。営業部の部長である甲斐田が声を張り上げる。


「紫藤くんは、命に別状はないそうだ! ただ、頭を打っていて、意識がないらしい。当分、出勤はできないそうだ」


 甲斐田の声を受けて、営業職の男性社員たちが打ち合わせを始める。真琴が担当している得意先を誰が代わりに回るか、話し合わなくてはならないからだ。


 その日、翼はいつもより二時間ほど多く残業して一条駅に向かった。今日は港も忙しく、翼一人だ。


 駅の改札口まで来ると「槙本さん」と声をかけられる。改札横の事務所を見ると、深刻な表情の河野がいた。


「紫藤くんのこと訊いた?」


「知ってるんですか!?」


 翼が驚いていると、河野は「詳しい事情は知らないんだけど」と前置きした上で話し始めた。


「紫藤くん、誰かと揉めてたんだ。それで、突き飛ばされてホームの下に落ちた」


 そして、真琴は突き飛ばされた時、とっさに相手の服を掴んだらしい。二人は共に転がるような形で、ホーム下に転落したそうだ。


 それを見た河野が、慌てて救出に向かったという。


(突き飛ばしたのって、もしかして佐藤部長?)


 翼は河野の話を聞いて、体が震えるのを感じた。



 翌日、中山東工業株式会社の全社員を対象に、臨時集会が行われた。まずは、社長から労働審判が終わったことが報告される。元社員に対してセクハラがあったことと、犯人は懲戒解雇とする旨が発表された。そして、今後はコンプライアンス研修等を行い、再発防止に取り組むということだ。


(これで、真琴くんへの疑いも晴れるかな……)


 翼は社長の話を聞きながら考える。


 社内では真琴がセクハラをしたのではないか、という噂も立っていた。しかし「真犯人が退職する」ならば真琴への疑いも晴れるだろう。


 労働審判の話が終わると、佐藤と真琴が駅のホーム下に転落して、入院中だという話が発表された。社長は「皆さんもお気を付けください」と言って締めくくる。河野から聞いたような「事件性」については触れられなかった。


 社員たちは「怖いよなぁ」「佐藤部長と紫藤くん、大丈夫なの?」と口々に言いながら、自分の持ち場に帰っていった。


 * * *


 週末、翼は真琴が入院している病院に行くことにした。真琴の意識はもう戻ったと聞いている。


 本当はもっと早く来たかったのだが、忙しくてなかなか面会時間に来られなかったのだ。


 建物は新しく、広い病院だった。受付で病室を聞いて、早足で向かう。一刻も早く会いたかった。


 そして、翼が病室の前まで来た時。


 部屋の中から、五十代ぐらいの女性の声が聞こえた。


「真琴、仕事辞めて帰ってきなさい。お父さんの代わりによく頑張ってくれたわ。もう充分よ」


 涙がにじむその声音に、翼はぎくりと体をこわばらせた。


 しばらくの沈黙の後、戸惑ったように「母さん……」と呟く真琴の声が聞こえる。中にいるのは、母親のようだ。


 真琴の母親の言うことは、もっともだ。もし、佐藤に突き飛ばされたのなら、会社は辞めて実家に戻った方がいいだろう。


 佐藤が退職するにしても、近くにいる限り偶然会う可能性もあるからだ。


 しかし、真琴が実家に戻るとなると、また「別れ」を経験しなければいけないのか。


 翼は三年前、真琴が退学すると言った日のことを思い出す。真琴への気持ちを自覚したのに、好きだと言えなかった、あの日のことを。


 翼は、心に穴を開けられたように感じた。大きな穴に、心が飲み込まれていきそうだ。


 病室では話が続いている。しかし、翼にはもう「意味のある言葉」ではなく「音声」にしか聞こえない。右耳から左耳へと、ただ音が通り過ぎていくだけだ。


 翼はそっと病室を離れる。足を動かしているが、自分のものではないような気がした。



 しばらく歩いていると、病院内に大手チェーンのカフェがあった。休憩も兼ねて立ち寄り、冷たいカフェラテを飲む。少し気分が落ち着いてきた。


 そして、誰かにこの不安を打ち明けたくなってくる。翼と真琴のことを知っている誰かに……。


 ふと、学生時代の友人、まどかの顔が思い浮かんだ。


(連絡してみようかな)


 携帯を片手にぼんやりと思う。ゴールデンウィークに帰省して以来、連絡を取っていなかった。


 詳しく説明すると長くなるので、簡単に真琴が入院している旨のメッセージを送る。すると、数分後に電話がかかってきた。


「も、もしもし、まどかちゃん?」


 こんなに早く反応があると思わなくて、驚いた。


 まどかは勢いよく尋ねてくる。


「入院って、真琴くん大丈夫なの!?」


「一応、意識は戻ったよ。でも、もしかしたら真琴くん、会社辞めちゃうかも……」


「ええっ、なんで!?」


 翼は泣き出しそうになるのをこらえながら、まどかに説明する。


 真琴がセクハラされた先輩を助けていたこと。セクハラをしていた上司に逆恨みされて、今回入院するに至ったこと。母親から、帰ってきなさいと言われているらしいこと……。


 翼から一通り事情を聞き終わったまどかは、少し考え込みながら言う。


「真琴くんは、何て言ってたの?」


「え……。わかんない」


 真琴の母親の言葉がショックで、その後の会話はまるで頭に入ってこなかったのだ。


 すると、まどかは冷静な口調で言う。


「まずは真琴くんのお見舞い、行ってきなよ。まだ仕事辞めるかわかんないじゃん」


 その言葉は、翼の心の中に、すっと入ってきた。心に空いていた「不安」という穴が、少し小さくなった気がした。


「そうだね、そうする」


 目の前が、明るくなった気がした。


 

 翼が真琴の病室を再び訪れたのは、約二十分後のことだ。


 もう話し声は聞こえない。


 ドアを軽くノックして中に入る。病室に入ると、真琴がベッドに横たわった状態で眠っていた。


 数日ぶりなのに、もう何年も会っていなかったような気がする。


 人の気配に反応したのか、真琴がゆっくりと目を開けた。


「翼ちゃん……?」


 病室の窓からは、明るい光が差し込んでいる。


 真琴の姿が思ったより元気そうなのが嬉しくて、ほっとして、泣き出しそうになった。

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