第38話 好きな人と話がしたい

 ビアガーデンの帰り道。ホテルを抜けて、駅に向かう。


 お酒が回ってきたのか、翼は夢を見ているような気分だった。足がふらふらして、気分がふわふわする。


「デザートのプリン、おいしかったですねぇ。……わっ!?」


 地面にあった何かに躓いた。港が慌てて翼の体を抱きとめてくれる。力強い男性の腕に動揺する。真琴も港にこんな風にされたら、気持ちが揺れ動いてしまうかもしれない。


 翼は泣き出しそうな気持ちで言った。


「……真琴くんのこと、取らないでくださいよぉ」


「何を言ってるんだ?」


 眉をひそめる港に、翼は必死で訴える。


「私、わかってるんですよぉ……。真琴くんが可愛いから迫ってるってぇ……。このぉ、真琴くんと付き合ってたなんて羨ましい!」


 翼は、ぽかぽかと港の体をたたき始めた。「おい、やめろ」と港が言うが、翼の気持ちはおさまらない。真琴が、港のことを好きになってしまったのだとしたら。


「真琴くんが……こうやって、抱きついてきたら、どうするん……ですか?」


 そう言うなり、翼は勢いよく港の背中に手を回した。


「……」


 港はしばらく微動だにせず、されるがままになっていた。やがて「人が見てるから離れろ」と言って、翼の腕を外す。


「今日はタクシーで帰れ」


 港が小さな声で言うと、翼は素直に頷く。思う存分、叩いたので気が済んだ。翼はふらふらとした足取りで離れる。


 港が「酔うとタチが悪いな……」と小さな声で言っていたことを、知る由もなかった。



 * * *



 帰寮した真琴は、駅で見た光景を思い返す。翼が港の背に腕を回していた光景が、脳裏に焼き付いて離れない。


(どういうことだ? 翼ちゃんは港さんのことが好きなのか?)


 二人を見ていても、それらしい気配は感じなかった。それとも、真琴が気づかなかっただけなのだろうか。


 今すぐ確かめたい気持ちに駆られる。しかし、何と言えばいいのか。


 そして、もう一つ「今日の出来事」を思い返す。


 亜美に告白されたことだ。


 彼女は可愛らしい外見に反して、中身はしたたからしい。翼たちを目にして茫然とする真琴に、こう言ったのだ。


「すみません。私、まだ諦められないです。だって、紫藤さんの好きな人に負ける気がしませんから」


 あっけにとられる真琴に笑顔を向けて、亜美は帰って行った。


(まるで三年前の僕みたいだな)


 学生時代、翼に告白して「河野さんから奪うつもりだから」と宣言した。結局、果たすことはできなかったが……。


 真琴は自分の気持ちを翼に話すのは、佐藤が退職してからにしようと考えていた。もう審判は終わっているし、事件を起こすことはないだろう。ただ、万が一ということもある。念には念を入れておきたかった。


 しかし、慎重になっているうちに、翼が港と付き合ってしまうかもしれない。


(そもそも翼ちゃんは今、誰のことが好きなんだ……?)


 三年前「僕の気持ちはもう、忘れていいから」と言った瞬間、翼は奈落の底に突き落とされたような顔をした。


 あの表情の意味を、真琴は幾度となく考えている。


 もしかして、翼も真琴を好きでいてくれたのではないか。


 しかし、その仮説が浮かび上がるたびに、打ち消してきた。当時、翼は河野に失恋したばかりだった。いくら何でもそれはないだろう。自分に都合のいい解釈をしているだけだ。


 そう考えて「仮説」を無理やり心の奥に封じ込めた。


 だけど三年経って再会した時、封じ込めた「仮説」が再び真琴の頭をよぎり始めた。


 真琴が亜美にアプローチをされていると知ると、翼は不機嫌な様子になったからだ。とげのある声で「寺川さんって可愛い人だよね」と言った。


 これは「嫉妬」ではないのか。


 恋愛経験が少ない真琴でも、そう思わずにいられなかった。


 自惚れてもいいのだろうか。翼に好かれているかもしれない、と。


 三年前、自ら手放した初恋の成就。


 今度こそ、と願ってもいいのだろうか。


 しかし、頭の中に、港に腕を回していた翼の姿がよみがえる。


(やっぱり、都合のいい解釈をしているだけなのか……?)


 考えれば考えるほど、わからなくなっていった。



 * * *



 月曜日の朝、翼がロッカーで着替えていると亜美がやってきた。ロッカーにいるのは、翼と亜美だけだ。


 挨拶をすると、亜美がいきなり言った。


「私、好きな人に告白したんです」


 思わず耳を疑った。頭が真っ白になる。


「そ、そうなんですか」


 動揺する心を抑えながら、かろうじてそれだけを口にする。亜美を見ると、ふわりと微笑んで言った。


「槙本さんは? 藍田さんと付き合うんですか?」


「付き合いませんよ! 何でですか?」


 翼が強く反論すると、亜美は首を傾げて言う。


「だってビアガーデンの帰り、抱き合ってたじゃないですか」


「ええっ?」


 確かにビアガーデンの帰りは、港に送ってもらった。しかし、そんなことは記憶にない。それとも、酔っていたから忘れているのだろうか。


 翼が考え込んでいると、亜美は驚くべきことを言った。


「紫藤さんに訊いてみたらどうですか? 私、紫藤さんと一緒に帰った時に見ましたから」



 翼が制服に着替えてロッカーを出ると、真琴と鉢合わせた。翼が口を開こうとすると、真琴は鬼気迫る表情で言う。


「今日、仕事が終わったら話したいことがあるんだ」


「え? うん」


 労働審判が終わったら……と言っていた、例の話だろうか。いつになく勢いのある真琴に、翼は戸惑った。



(一体、何の話なんだろう?)


 仕事をしていても、真琴のことが気になって、落ち着かなかった。



 * * *



 オレンジ色に染まる空の下を、電車が駆け抜けていく。


 真琴が腕時計を見ると、夕方の六時だった。今から会社に戻ったら六時半ぐらいだろうか。


「一条駅、一条駅です」


 車内にアナウンスが流れ、真琴はホームに降り立つ。電車はほどなくして走り去っていった。


 改札を目指して歩いていると、見知った顔を見つけて驚いた。佐藤だ。外出していたのだろうか。


 真琴を見ると、佐藤は苛立った表情を浮かべた。


「お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ!」


 そう言うが早いか、佐藤は真琴に勢いよく掴みかかってくる。真琴の靴が点字ブロックに当たるのを感じた。このままだと、ホーム下に転落する。そう思い、安全な場所に移動しようと試みた。しかし、佐藤の体は存外重く、押しのけることができない。


「お前のせいだ!」


 佐藤がそう叫んで真琴を突き飛ばす。


 真琴の細い体が宙を舞った。



 * * *



 営業部の事務所の電話が鳴る。


 いつもなら翼が取るのだが、なぜか一瞬、取るのを躊躇ってしまった。


「はい、中山東工業でございます」


 美奈が落ち着いた様子で電話に出る。しかし、段々とその口調が緊迫したものになっていった。


「え? はい。……はい、承知しました。お待ちくださいませ」


 そして、電話を保留にすると、慌てた様子で上司の甲斐田に取り次いだ。


「どうしたんですか?」


 ただならぬ様子の美奈に、翼が声をかける。美奈は一瞬、迷う表情を見せた。しかし、すぐに小さな声で言う。


「紫藤くんが、病院に運ばれたって」


「どういうことですか!?」


 思わず大きな声を出してしまい、ハッとする。


 体が震えるのを感じた。初夏だと言うのに、全身が冷たくなる。


 真琴はなぜ、病院に運ばれたのだろう。事故にでもあったのだろうか。


 美奈は青ざめた顔で、力なく首を振る。


「詳しいことはわからない。でも、佐藤部長も一緒らしいわ」


 佐藤の名前に、翼はなぜか鳥肌が立つのを感じた。そして、今朝の真琴の言葉がよみがえる。




 ――……今日、仕事が終わったら話したいことがあるんだ。



「まだ、聞いてないよ」


 翼は誰にも聞こえないように、小さく呟いた。

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