第37話 想いは誰に

 港はゆっくり立ち上がると、真琴の席に行く。後ろは壁だ。港は壁に手を突く。他の社員が来たら、誤解を招きかねない体制だ。


「土曜日、槙本さんにこうやって……」


 と港が言いながら真琴に近づいた時。


 ドアが開く音と共に「おはようございます」という声が聞こえてきた。港と真琴は動きを止める。


 出勤してきたのは翼だ。


「……二人とも、よりを戻したんですか?」


 翼は茫然とした口調で言った。


「戻してない!」


 慌てて真琴が否定すると、港も静かな口調で「土曜日の再現をしただけだ」と言う。


 翼の脳裏に、港が顔を近づけてきたときのことがよみがえる。


「可愛いから迫られるって言ってたことですか?」


 翼が首を傾げて言うと、真琴が眉をひそめた。


「迫られるってどういうこと?」


「えっと……」


 翼が言いかけると、ドアが開く音がする。他の社員が出勤してきたようだ。


 結局、真琴に返事ができないままだった。



 * * *

 


 その日、仕事が終わった後、真琴に駅まで送ってもらうことになった。今日は少し早めの時間に終わったので、空はまだ薄暗い程度だ。


「ごめん、今朝は変なところ見せて」


 真琴の声に翼の心臓がどくどくと音を立てた。聞くのは怖いが、思い切って口に出す。


「本当に、港さんと、よりを戻したわけじゃないんだよね?」


「違う! あれは……」


 真琴は何かを口にしかけたが、結局その先を言うことはなかった。


 そして、今度は真琴が奥歯にものが挟まったような口調で言う。


「あのさ、今朝『可愛いから迫られる』って言ってたけど……港さんに迫られたの?」


「えっ!? 私は迫られては……いないけど」


 どちらかと言えば、あれは「真琴が迫られるぞ」という警告だ。


 しかし、真琴は何故こんなことを訊くのだろうか。


 真琴は沙知の告白を断り、亜美と付き合う気はないと言った。それは、もしや……。


(港さんのことを好きになったから、とか? だから、私が港さんに迫られてるかどうか訊いてるのかも……)


 真琴と港には「付き合っていた」過去がある。当時の真琴は港に恋愛感情がなかったが、三年経った今ならばわからない。


 真琴は「よりを戻したわけではない」と言っていたが、どこか言いにくそうな口調だった。


 何か、翼に言えないことがあるのではないだろうか。たとえば、港に「迫られて心が揺れ動いてる」とか……。


 考え込んでいると、真琴はためらいがちに口を開いた。


「翼ちゃん、労働審判が終わって佐藤部長の処遇が決まったら、聞いてほしいことがあるんだ」


 真琴の真剣な表情に目を奪われる。翼の全てを見通すような強い視線だ。しかし、その強い視線が、翼を不安にさせる。


(港さんを好きになったから、これからはライバルとしてよろしく、って言われたらどうしよう……)


 初夏の風が、柔らかく翼の体を吹き抜けていく。


 風が街路樹の葉を揺らして、ざわざわと音を立てた。



 * * *



 数週間後、労働審判の第二回期日がやってきた。


 亜美の証言が加わったことで、労働審判官の心象は「セクハラは事実」という方向に傾いたようだ。


 佐藤は否認をしていたが、会社側から沙知に賠償金の支払いが命じられ、労働審判は終了した。



 第二回期日が終わった日の夕方、営業部の事務所に佐藤が現れた。どすどすと重い足音を立てながら、佐藤はまっすぐに真琴の席に向かっていく。翼は、言葉もなくその様子を見守ることしかできない。


「余計なことしやがって」


 怒気を含んだ口調で、真琴に迫る。


 真琴は静かな、しかし何かを抑えたような表情で、佐藤の言葉を受け止めた。


 その時だ。


「見苦しいですよ、佐藤部長」


 声がした方を振り返ると、社長が立っていた。外出先から帰ってきたようだ。


 唖然とする佐藤に社長は言う。


「労働審判の結果は聞きました。審判では、あなたの処遇については言及されていませんが……。こうなった以上、考えなくてはいけませんね」


 社長の言葉に佐藤は青ざめながら、必死に言い募る。


「私には、家庭があるんです!」


 しかし、その言葉に社長は動じることなく、冷静な口調で言い放つ。


「宮井さんには、社会人としての未来があったのではないですか? 彼女は当社の外で生きることを選んだようですが」


 絶句する佐藤を一瞥すると、社長は立ち去って行った。


 

 佐藤が懲戒解雇されることが決まったのは、数日後のことだ。業務の引継ぎがあるので、退職まで一か月前後はかかるようだ。



* * *



 そして、翌週。


 社内の行事でビアガーデンに行くことになった。全部署の人間が集まっているので、相当な人数だ。場所は、会社から三十分ほど離れた駅にある、ホテルの屋上。薄闇の中、各テーブルにキャンドルが置かれているのが、なんとも幻想的である。


 労働審判が終了したからか、どことなく社員たちも解放ムードに包まれていた。


 翼も当事者ではないものの、労働審判が終わったことで、少しほっとしていた。真琴は聞いてほしい話があると言っていたが、今のところ何も言ってこない。


 翼の隣には美奈が座っている。そして、近くの席には真琴と港もいた。あれから、二人の間に特に変わった様子はない。


 翼はピザを食べつつ、空色の甘いカクテルを飲む。暑いせいか、お酒がやたらとおいしく感じられた。



 翼が二杯目のお酒を飲み終わった頃、ふと見ると真琴がいなくなっていた。違う部署の社員に呼ばれて、他のテーブルに移動したようだ。


 そこまで思い至り、ふらりと目が回る。


 翼がゆっくりと水を飲んでいると、港が声をかけてきた。


「おい、大丈夫か? しんどそうだぞ」


「……酔いが回ったかもしれません」


 翼はお酒にあまり強くない。


 力なく笑うと、港は「もう帰った方がいい」と言う。翼は回らない頭で、こくりと頷いた。



 * * *



「紫藤さん、駅まで送ってもらえませんか? ちょっと酔っちゃったみたいで……」


 真琴が、総務部の社員たちがいるテーブルで飲んでいると、ふいにそう言われた。頼んできたのは、亜美だった。


「大丈夫?」


 真琴が尋ねると、亜美は小さく頷いた。



 夜風が吹き抜ける中、駅に向かって亜美と二人で歩く。酔ったと言っても亜美の足取りは意外にしっかりしている。


 ホテルを出て、駅に繋がる連絡橋にやってきた時、亜美が立ち止まった。そして、真琴を真っすぐに見て言う。


「紫藤さん、私と付き合ってくれませんか」


 酔っているとは思えないぐらい、しっかりとした口調だ。街灯に照らされた目は、強い意志を宿しているように見える。


 真琴は、いつもと違う亜美の様子に驚きながら言った。


「……ごめん。僕、好きな人がいるんだ」


 亜美はさして動揺した様子は見せなかった。まるで真琴の答えを予想していたように、余裕のある表情で微笑む。そして、次に亜美の口から出てきたのは、思いもかけない言葉だった。


「好きな人とは両思いになれそうですか?」


「え?」


 戸惑う様子を見せる真琴に、亜美は右手で橋の下を指し示す。橋の下は、駅の入り口だ。


「あれ、藍田さんと槙本さんですよ」


 真琴は橋の下を覗き込んだ。


 そして、目に飛び込んできたのは、翼が港の背中に腕を回している光景、だった……――。

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